文庫本の元祖ドイツの『レクラム百科文庫』(4)

第4章 その後の発展

1 創刊当時の時代背景

レクラム百科文庫は、まさに十九世紀の申し子であった。第一次世界大戦に至るまでのその発展ぶりは、そのことを明瞭に示している。その揺籃期には、人文主義の理念と古典主義的理想主義が育ての親を務めた。そしてこの文庫は、人間や精神あるいは教育というものへの信頼で満たされていた。

百科文庫が創刊された1867年の前後は、ドイツの社会にとって、まさに激動の時代であった。創刊の前年の1866年にはビスマルクの手によって北ドイツ連邦が生まれたが、その4年後の普仏戦争に勝って1871年には、念願のドイツ統一が達成された。そしてこの後ドイツには、長く、豊かな平和の時代が訪れた。第二帝政の時代であるが、この時代のドイツは、政治的・軍事的な大国へと成長していった。いっぽう経済的にも、1870年代初期のグリュンダーツァイト(創業者時代)には、かつてないほどの大規模な好景気が訪れた。そして全体として進歩と発展は時代の合言葉となった。人々は一生懸命働き、成功を勝ち得ようとした。それによって経済活動はさらに活発になったが、それは同時にドイツ人の一人一人に社会的な上昇の可能性をも与えることになった。個人の集中的な努力が必要とされ、また教育や教養も絶対不可欠の条件とみなされていたようだ。そこには、啓蒙哲学から生まれたドイツ古典主義の理念が、なお人々の間に息づいていたのだ。それはつまり個人が持つあらゆる素質を調和的に鍛練することであり、美的・道徳的に陶冶された個人が理想とされたのであった。また古典主義的な教養の概念をその基礎にすえていたペスタロッチの教育理論の中にも、そのことはみられたのである。

その一方で、別の歴史的な潮流も、その時代には見られた。それは過去に対する関心の増大、つまり歴史主義と物質主義的な人生観とであった。こうした様々な精神的な潮流がせめぎあって、そこでは知識をたくさんもつことがすなわち教養であるであるとされた。またベーコンの「学問は力である」という言葉は、「知識は力である」という風に曲解されたりもした。その結果として表面的で生半可な知識を振りかざす人々や、ディレッタント的な人たちも現れた。

それにもかかわらず、物質主義的な人生観を持つ人々がいたのとは裏腹に、それまでは広範な層の人々に対して閉ざされていた真の教養に対する飢えは、大きかったのである。そして教養のある人と教養のない人との溝を埋めようとして、いろいろな試みがなされるようになった。その表れとして、この時代には実にさまざまな成人教育機関が設立されている。そのいくつかを列挙すれば、大衆文学協会、移動・民衆図書館、「民衆教育普及協会」(1871年設立)、民衆劇場そしてとりわけ成人教育機関としての市民大学などである。このような流れの中で、『レクラム百科文庫』も時代や人々に大きな刺激を与え、やがてそれ自身一つの文化的な要素となり、社会の精神的・文化的な発展にもすくなからず影響を与えていくことになるのである。

「百科文庫」はまさに全身全霊を挙げて、十九世紀後半から第一次世界大戦に至る時代に打ち込んでいたわけで、時代と一体化していたという意味で、「時代の申し子」であったのである。その揺り籠の傍らでは、人文主義の理念と古典的な理想主義が代父を務めた。そしてそれらは「文庫」に、人間や精神、教育や知識そして個人への人格的な感化の思想などを植え付けたのであった。

2 初期の発展

発刊点数の着実な上昇

百科文庫の発刊点数は、最初の十年間、年平均80ナンバーであった。それが1880年代および1890年代になると、年平均140ナンバーへと増大した。そして創刊ほぼ30年にして創業者が亡くなった1896年には、それは実に3470ナンバーに達していたのであった。「開かれた叢書」という性格を持っていた百科文庫は決して種切れすることはなく、素材となる作品はむしろ有り余るほどであった。そのためこうした豊富な素材から適切な作品を選び取ることの方が、困難なことなのであった。

「文庫」への作品選定の仕事を一手に引き受けていたハンス・ハインリヒは、できる限り多様な内容にすることを心掛けていたという。そしてドイツ古典文学作品や世界文学の名作と並んで、一般によく知られていて売れそうなポピュラーな作品を、まずは優先して「文庫」に収録していった。政治的に偏った作品は、そこには入る余地はなかった。百科文庫は中立公正で、一党一派に偏ってはならず、ただ「教養と進歩」に貢献すべきものとされていたからである。その後しだいに哲学、歴史、教育学から音楽や演劇の解説書などへとジャンルは広がっていった。さらにごく初期には詩の作品をかなりたくさん収録したことがあったが、売れ行きが悪かったので、以後抑制するようになった。

もともと「人々に愛好されている人気作品をどんどん収録していくこと」は、その最初の宣伝パンフレットの中でも明らかにされていた。それが発刊点数が増大するにつれて、作品の選択にはますます時代精神や時代の好みが、良かれあしかれ、反映されるようになっていった。とはいえレクラム社としてもそうした外部要因に単にしたがっていたわけではない。作家や作品の選択にあたっては、内容的にすぐれた作品と広く人々から好まれている作品とのバランスに、たえず配慮していたことは言うまでもない。

レクラム・シンパの協力

百科文庫がまだ十分その軌道に乗る前の初期のころ、レクラム出版社には数多くの無名の読者や協力者から、さまざまな提案が寄せられ、進んで校正の仕事をかって出るものすらいたという。その人たちは、さまざまな社会階層や年齢層に属していて、学校の教師、聖職者,士官、法律家、学生などであった。なかには18歳の高校生すらいたが、この人物はもちろん極めて有能な若者で、のちに大学で文学を教える教授になっている。このカール・テオドーア・ゲルデルツは、フランスの古典作家コルネイユとラシーヌの作品をドイツ語に翻訳しているが、これらは「文庫」に収録されている。

当時のドイツでは、素人が戯曲作品の執筆をするなど、文学に取り組むことは、ごく一般的なことであったのだ。かくして陸軍大尉が悲劇を書き、陸軍大佐がシルヴィオ・ペリッコの作品を翻訳し、地方裁判所の試補が喜劇を書いて、賞を獲得するといったことも、普通だった。これらはいずれも百科文庫の中に収録されている。また日刊紙に演劇評論を掲載し、三巻の『演劇表現の技法』という本も刊行していたベルリン在住の批評家レッチャーのまわりには、「百科文庫友の会」のメンバーが、早い時期から集まっていた。
これらの人々はいわばレクラム・シンパともいうべき存在で、レクラム社側から内容の変更や修正を要求されても、いやな顔一つせずにそれに従い、わずかばかりの報酬で満足していた。彼らは百科文庫が順調に育っていくことだけをひとえに願い、その事業に対して著者、訳者あるいは協力者として寄与できることに、喜びを見出していたのである。

3 その後の歩みとジャンルの拡大

百科文庫はこうした初期の苦労の多い歳月を経て、しだいにジャンルを拡大し、それに伴い発刊点数もかなりの速度で増やしていった。そして1896年の創業者の死、1908年の五千ナンバー記念を経て、第一次世界大戦末期の1917年に大きな転機を迎えることになる。ほぼ五十年間にわたって変わらなかった、その価格と装丁がこの時初めて変更され、百科文庫は新しい時代へと突入していくことになるのだ。

レクラム百科文庫創刊からこの時期までの期間は、ドイツの第二帝政(1871~1918)とほぼ重なるわけであるが、この期間こそはこの叢書の名声が、国内はもとより遠く海外にまでとどろき渡るようになった「第一の黄金時代」であったと言えよう。
次にこの期間について、主にジャンルの拡大およびエポック・メーキング的な出来事を中心に、その発展ぶりをざっと眺めることにしたい。

中核としての古典文学

1870年、ヴェルギリウスの『アエネイス』とホメロスの『イリアス』、『オデュッセイア』がドイツ語翻訳で文庫に収録された。翌71年にはオヴィディウスの『変身』が、そして73年にはホラティウスの『歴史』、アプレイウスの『アモールとプシケ』ならびに三大悲劇詩人のアイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスの戯曲作品が、相次いで収録されていった。こうしたギリシア・ローマ時代の古典文学つまり詩人、哲学者、歴史家などの作品は、当時のドイツで身に着けるべき教養の一部として、以後百科文庫の中心的なジャンルの一つになっていく。

創刊からまる4年が過ぎた1871年の段階で、百科文庫の発行点数は360ナンバーに達した。レッシングからE・T・A・ホフマンに至るドイツ古典文学作品は、創刊当初から「文庫」の最も中核的なジャンルである点に、変わりがなかった。と同時に世界文学の作品も、ますます広く収録されるようになっていった。このころにはアメリカ文学のロングフェロー、ロシア文学のプーシキン(『エウゲニー・オネーギン』など)のほか、ハンガリー文学、スウェーデン文学、ノルウェー文学の作品も登場するようになった。またインド文学については、ゲーテが称賛して以来ドイツで最もよく知られていた戯曲家カーリダーサの『シャクンタラ』が1879年にまず収録された。

いっぽう、1873年にはゲルマン古代・中世の作品も収録を開始した。『ベーオウルフ』、『クードルーン』、『エッダ』、『ニーベルンゲンの歌』などの英雄叙事詩から中世ドイツ最大の抒情詩人ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデと続いたが、このジャンルは再び90年代に盛んに取り入れられるようになった。その際『アンノーの歌』や『ローラントの歌』に見られるように、一般読者のことを考慮して、現代語訳の出版も現れた。以後ドイツの古い作品の現代語訳は、どんどん増えていくが、これの翻訳に当たったのは、学者ではなく、良い意味でのディレッタント的な市民であった。こうした形で百科文庫は19世紀後半に、ドイツ古代・中世文学の受容と普及に大きく貢献したのである。

哲学部門の開始

1877年にカントの『純粋理性批判』、プラトンの『クリトン』、『ファイドン』、『饗宴』、翌78年にカントの『判断力批判』、『実践理性批判』が収録されたが、これをもって百科文庫における哲学部門の開始と名づけることができる。ここではギリシア哲学と十九世紀ドイツ哲学が中核を占めた。しかしこのほかにも、ローマ哲学、啓蒙哲学、他のヨーロッパ哲学、中国哲学、インド哲学も収録された。

ショーペンハウアー(1788~1860)の作品は、その著作権保護期間が過ぎた1891年に、E・グリースバハ校訂で、全6巻の作品が収録された。日本でも高名なこの哲学者は、その生前はほとんど顧みられることはなかった。その主著『意志と表象としての世界』の第一巻は、1819年に発刊されてから14か月の間に百部にも達せず、1830年から1843年の13年間に、わずか41部しか売れなかったという。

それが1880年代以後になると、ヨーロッパ中でショーペンハウアーに対する関心が、大きな高まりを見せるようになった。人類の歴史を盲目的な情熱の活動の場として、また個人生活を見せかけの価値へのせわしない営みとして説明する文化悲観主義などが、彼を創業者時代の市民の人気哲学者にしたと言われる。1891年レクラム社は、コッタ、ブロックハウス、マイアーなどのドイツの出版社と並んで、ショーペンハウアーの全集を出版したのである。その廉価によって、かなりの売れ行きを見込めたレクラム社では、『意志と表象としての世界』の第一巻を、1万5千部刷ったと言われる。さらにその後の8年間で3万5千部刷っている。そして時代は下がるが1942年までに、合計12万5千部に達したのである。元来難解な哲学書が、このような売れ行きを見せたことは驚きといわねばならないが、やはりその原因は廉価にあったと見るべきであろう。

イプセンほかの北欧文学の導入

ノルウェーの劇作家ヘンリク・イプセン(1828~1906)と百科文庫とのつながりには、浅からぬものがあった。1877年、彼の作品『社会の支柱』が初めて収録されたが、以後イプセンは北欧文学をドイツで代表する作家として、レクラム社によって紹介されていく。1877年からの10年間、レクラム社は彼の作品をどんどん出版し、これによってイプセンは完全にドイツの市民権を得るようになった。そして1893年までに合計18編の戯曲作品が、レクラムのもとで出版された。その後期の代表作『幽霊』や『人形の家』などは、ほぼ初演と同時にドイツ語版が出版されるといった有様であった。著者自身、百科文庫での人気に対して感謝する旨の手紙をレクラム社に寄せている。

このイプセンの先例にならうようにして北欧諸国からは、ビヨルンソン、リー、キールラント、ドラハッハマン、ヤコブセン、ストリンドベリー、ハイベリー、ラーガーレフなどの作家の作品が百科文庫に収められていった。これらの文学は一般にヨーロッパの古い宗教や社会を鋭く批判する調子をもち、そのため革命的ともモデルンともみなされていたが、これらはドイツの自然主義文学にも大きな影響を与えたのであった。この意味でレクラムは、古い古典の再現や人気作品の提供だけではなく、未来を切り開く作品の開拓にも熱心であったことが分かる。

世界文学仲介者の役割

経済的好況と市民的繁栄を告げる1870年代は、文化史的に見れば百科文庫の発展にとって都合の良い二つの精神的な潮流に支配されていた。その第一は、この市民的リアリズムの時代にあってもなお、教養及び世界文学に関しては、十八世紀後半から十九世紀前半にかけてのゲーテ時代的ないし古典主義的価値観が支配的であったことである。その第二は、「知識と教養は力である」という標語によって労働者層を市民的な文化へと導こうとする動きが活発になってきたことである。これはつまり社会的な階層を上昇するための有力な手段として教養を身に着けることが重要である、という考え方が出てきたという事である。

第一の潮流は、「古典文学愛好の伝統」として、1870年代から90年代にかけてなお脈々と続いていたわけである。この流れに乗るようにして、百科文庫は初期のころから世界文学に重点を置き、その数多くの翻訳作品を通じて、文学的な仲介者の役割をはたしてきた。ゲーテは世界文学概念との関連のもとで、翻訳を国際交流におけるもっとも重要で、最も立派な仕事の一つであるとしていたのだ。

第二の潮流についてみると、当時勃興してきた労働者運動の流れのなかで、その担い手であった社会民主党幹部のヴィルヘルム・リープクネヒトが、1872年に「知識は力であり、教育は人を解放する」と述べていることが注目される。さらに彼は「社会民主党とは、優れて教育の党なのだ」とも付け加えている。この労働者層は百科文庫を支えるひとつの有力な柱として、次第に重要性を増していくのだ。

ロシア文学への関心の高まり

ドイツ人の一般読者にとっては、ロシア文学は1880年代以前にはあまりなじみのないものであった。しかしこの頃になるとドイツ人の関心も高まり、積極的に摂取するようになったが、これにはレクラムもかなりの程度寄与していた。外国文学の中ではやはりフランス文学とイギリス文学が、百科文庫に収録されていった作品の数では圧倒的に多数を占めたが、それでもロシア文学の120作品という数字は決して少なくはなかった。当時のドイツ人のロシア文学に対する関心は、主として倫理的、社会的な問題への特別な関心、そして非人間的なツアー帝国の現実に対する批判的な関心であった。

こうしたロシア文学の作品を、レクラムはドイツの出版社としては一、二を争う規模で出版したのである。しかも作品によっては、百科文庫に収められたものがドイツの書籍市場で、長い間ただ一つのものであり続けたものもあった。1882年ロシアの雑誌に発表されたツルゲーネフの散文詩は、その一年後に「文庫」に収録されたし、トルストイの民話は1889年にレクラムで出版されたのち、三十年間ドイツの他の出版社で発行されることはなかった。

その始まりは1872年のプーシキンであったが、続いてツルゲーネフがやってきた。彼は南独バーデン・バーデンに長く滞在し、またシュトルム、ハイゼほかドイツ人作家との交流を通じて、ドイツの文化生活にも慣れ親しんでいた。このほかゴーゴリ、レールモントフ、トルストイ、ドストイェフスキー、ゴンチャロフ、チェーホフなどの作品が、百科文庫に収録されていき、それぞれ高い発行部数をもっていた。叙情詩は、代表的な翻訳者F・フィードラーの手によって翻訳が進められ、コルゾフ、レールモントフ、ニキチン、プーシキン、ネクラーソフ、ポロンスキー、チュウチェフなどの詩集が収録されていった。ドストイェフスキーの『罪と罰』は1882年に、『死の家の記録』は1890年に、またトルストイの『アンナ・カレーニナ』は1891年に、そして『戦争と平和』は1892年に収録された。さらに二十世紀にはいってから、ゴーリキーの初期の作品が収められた。

オペラ台本・音楽作品解説本および実用書

1889年には、一連のオペラ作品の台本が、一つの独自のグループとして百科文庫の中に登場した。この時はヴェーバーの『魔弾の射手』、ロルツィングの『ツアーと大工』及び『武具師』、ベートーヴェンの『フィデリオ』そしてモーツァルトの『魔笛』が収録されたが、続く数年の間に大幅に増え、90点にも達した。これらオペラ台本には、それぞれ解説が付けられた。

この流れに乗るものとして、1905年からは、「大音楽家傑作集解説」シリーズが始まった。その第一作はヴァーグナーの『さまよえるオランダ人』で、詳しい作曲家の伝記も添えられ、以後1927年まで続いた。

また時代の要請や人々の要望に従って、様々な種類の実用的な書物も百科文庫の中に取り入れられていった。それはまさにこの叢書のタイトルにふさわしく、百科全書的に実に広範な分野に及んでいた。つまりいろいろな辞書・辞典類、ハンドブック、実際的な法律書、医学書、料理の本などが、すでに80年代から収録され始めていた。さらにチェスの本をはじめとして、いろいろなゲームや娯楽の解説本も次々と発行されていったのである。

4 一大出版王国への歩み

ここでは百科文庫を生み出すのに必要なハードウエアーについてみていくことにする。たしかに百科文庫は1867年の創刊以来、「フィリップ・レクラム・ジュニア出版社」の最も重要な出版物となったわけであるが、その生産体制はいったいどのようなものであったのであろうか。レクラムは自身の廉価版叢書を永続的に発展させていくために、その経営基盤確立という事を真剣に考え、大量生産体制を自前で作り出したのであった。

それはつまり普通の意味での出版社の編集及び営業活動のほかに、モノとしての書物を生産するための手段である広い意味での印刷業務及び製本業務を、自分のところでやったという事である。そして販売面でも仲介業者としての取次店を通さずに、直接小売書店などに「文庫」を届けていたのである。これは我が国の大手メーカーがやっている、生産から販売までの一貫した支配にも似た、極めて近代的で合理的な大量生産・販売体制であったと言えるのではなかろうか。

レクラム印刷所

創業者のフィリップ・レクラムは1839年、金持ちの友人たちの援助を受けて、ライプツィッヒのハーク書籍印刷所を買い取り、以後自分のところの出版物は、全てこの印刷所で印刷することにした。そして印刷に当たって最も高価につく活字の組版を新たに作らなくてもよくするために、ひとつの組版母型から同じものをたくさん作れる、当時最新鋭のステロ版印刷法を取り入れた。これがのちにレクラム百科文庫を創刊するための技術的な前提条件になったわけである。

その後レクラム印刷所では、反体制的な民衆向けの雑誌などを印刷したりして、ドイツの民主化運動のために尽くした。そのため当時ヨーロッパ大陸の旧体制の代表格であったオーストリア帝国宰相メッテルニヒから、「ザクセンの小冊子工房」の一つとして憎まれていたのである。「三月革命」失敗の後、1850年代に入ってからは、そこでは聖書、辞典類、ギリシア・ロ-マの古典書、オペラ台本など、高い発行部数が望め、しかも組版の変更なしに再販できるものに、印刷の重点が置かれるようになっていった。そして1858年には「シェークスピア戯曲全集」全十二巻が、<新ステロ版>として、発行された。これは商売のうえでも大当たりして、翌年にはすでに第五、六版を出すまでになっていた。

こうした営業上の成功を受けて、1862年には同じライプツィッヒのデリエン通り四番地に、自己所有の出版社と印刷所の建物を入手したのである。そしてここで百科文庫が1867年に創刊されたわけである。
百科文庫については、内容面の充実と同時に、その造本面でもたえず改善が行われていった。例えば砕木パルプを多量に含んだ質の悪い紙が、1882年にはもっと良質の紙に取り換えられた。また1894年には、それまでの針金綴りから糸と膠による製本に変わった。こうした文庫の内容面と造本面でのたえざる改善の動きを見て、ある商売仲間は別の仲間に宛てた手紙の中で、「レクラムは我々よりも息の長い仕事をしている」と書いている。

社屋の拡充と経営面での発展

やがて時とともに百科文庫の売れ行きが伸び、レクラム社が大きく発展し始めると、デリエン通りの出版社と印刷所を兼ねた建物では何かと手狭になっていった。そのためとりあえず隣家が買い取られたが、これら二つの建物は製本された本や仮とじの本でいっぱいになり、新しい印刷機を置く場所がなくなってきた。そこであらたにレクラム社は、1887年に同じライプツィッヒ市内のクロイツ通りとインゼル通りの角に、1万5千平方メートルの土地を購入した。そしてまずは従来より大きな、新しい印刷所を建設した。さらに1895年に第二の建物が付け加えられた。それから1905年になって、そのすぐわきに大きな事務所棟が建設されたが、これによってレクラム社の新社屋は写真に見るような堂々たる姿で完成したのであった。

百科文庫創刊二十年後の1887年の時点では、印刷所には百人以上の従業員が働いており、31台の高速及び平圧印刷機が、ほとんどもっぱら自社の印刷物のために稼働していた。いっぽう出版社の方には、15人の従業員がいた。当初から二代目当主のハンス・ハインリヒ自ら、編集業務、作家や読者との応接、原稿審査などに精力的に取り組んでいたので、編集員の数は少なかったようだ。しかし社の発展とともに、次第に編集者や原稿審査員の数も増えていった。こうして大きな企業へと成長した1896年には従業員のために休暇基金が創設され、一人一人に毎年50マルクの旅行費用が保証された。これらの社内福祉制度などによって、1920年の二代目の死に至るまで、人的側面からも一貫した継続性が維持されたのであった。

また1896年にはドレスデンのA・ハウスシルト社から家庭向け絵入り雑誌『ウニヴェルズム』を買収して、レクラム社から発行し始めた。この雑誌の題名が「百科文庫」のドイツ語名「ウニヴェルザール・ビブリオテーク」に似ていることが及ぼす良い影響を考えてのことと思われる。この雑誌のために出版社内部に独自の編集部、宣伝広告部、営業部が設けられた。この定期刊行物はレクラムの名前を一般に広め、併せて他の出版物を宣伝するために重要な手段となったのである。

1895年に第二の建物が建てられた時、その社屋はすでにかなりの威容を誇るようになっていたようである。1897年にレクラム社を訪れたある人物の証言を、次に引用しよう。
「私がまだ若い頃、クロイツ通りにあるレクラム社の正面の30も窓のある書物の宮殿を訪れた時、巨大なものへと成長した小さなものの持つ威力に対する畏敬の念が突如私を襲った。そしてアントン・フィリップの息子で後継者のハンス・ハインリヒ・レクラムが、かわいらしいスピッツを連れて大喜びで案内役を買って出てくれ、地下室から屋根裏部屋に至るまで、自慢の部屋の隅々まで先導してくれたのだ。」

1899年にはレクラム印刷所が設立六十周年を迎えた。その機会に印刷所の全従業員からレクラム社の社長に、印刷所の現状を伝える文書が手渡された。次にその中身をかいつまんで引用することにしよう。

「レクラム印刷所の60年後の状況はいかなるものか? ・・・今や出版社と印刷所を同じ屋根の下に擁するようになった巨大な建物の中で、昔は11台あった手動式印刷機は、たった2台しかない。ほかの印刷機は全て高速印刷機にとってかわられた。・・・新しい時代に即した材料(活字の)が購入され、毎年のように莫大な費用を投じて更新されている。こうして現在ではおよそ十万ポンドもの活字材料がある。昨年5月に作成されたリストには、360のさまざまな新しい活字と122の装飾、文字飾りが載せられている。印刷所のこうした変貌は、いまや大規模な書籍印刷と並んでイラストや美術印刷を行うことを可能にした。書籍印刷所の人員は年とともに増大し、いまでは平均135人にもなっている。・・・今日では42台の高速印刷機と11台の補助印刷機が毎日のように稼働しているにもかかわらず、わが社の出版物のかなりの部分を他の印刷所で印刷させる必要が、比較的以前から生じている。」

新社屋の完成(1905年)

1887年に購入した土地には、1905年に事務所棟の立派な建物がインゼル通りに面して建設され、これをもって写真に見るようなレクラム社の新社屋は完成することになった。五階建てのこの事務所棟には、事務部門、編集部門そして幹部の部屋が配置された。事務所棟、印刷所そして倉庫という三つの建物がぐるりと取り囲んだ中庭には、機械棟が立っていた。この機械棟にはボイラー二つと大きな蓄電バッテリーを備えた蒸気機関2基があり、56台の高速印刷機をそなえた印刷所に、暖房、照明、操業用電力を供給していた。写真を見れば一目瞭然だが、倉庫、発送倉庫、包装室、発送事務所、社長室、印刷室、電気設備室、蒸気機関室その他もろもろの近代的な設備を備えた一大出版王国であることが、お分かりいただけよう。

この社屋は第二次大戦中の1943年に数次にわたる連合国の爆撃によって大きな被害を被ったわけだが、それまでの間、書籍のメッカ、ライプツィヒのなかでもひときわ目立つ建物だったという。この巨大な建築物の内部で、いったいどんなことが行われていたのか、第一次大戦後の1925年に、作家でジャーナリストのエゴン・エルヴィン・キッシュが、ある雑誌に発表したルポルタージュがあるので、その主たる部分を紹介することにしよう。

「・・・われわれは、植字機が動き植字工が働いている部屋を通り、それぞれの鋳造された面が印刷用に斜めに裁断されている浮き出し印刷施設及びステロタイプ施設のわきを通り、53台の平版印刷機が稼働している印刷室を通り、さらに自動的に折りたたみ、仮とじし、裁断し、加圧する機械の側を通り、製本工房を通り、電気設備室を通り、百科文庫専用の本棚を作っている木工室を通り、駅の自動販売機の製造室を通り、植字材料が三重に(つまり出火した際に全部の植字がだめになってしまわないように、三つの異なった場所に)保管されている倉庫を通り抜けて、進んでいった。
ある建物の地下室と他の建物の屋上には、それぞれ一揃いの印刷用紙型が保管されており、第三の倉庫の中の防火設備付きの9つの部屋には、すべてのレクラム文庫が鉛の形で、いつでも使えるように待機している。6500巻の全てのページが、組版の形で保管されているのだ。16枚の薄い板の入った小さな包み。しかしこの包みは重い。1ボーゲンが8ポンドの重さだから、文庫一冊はこの状態で40ポンドとなる。・・・しかし最も驚くべきは鉄製の本棚に本が置かれている倉庫なのだが、それらの本は発送の準備ができた状態にあるか、それとも赤い紙製の表紙またはクロース製の表紙をつけて、二枚の板によって機械的にプレスされる状態になっているのだ。

74の本棚には、それぞれ13列から14列で、24の三倍の仕切りが付いていて、それらが4段に重なっているのだ。そこには『ファウスト』からヴェーバーの『十三の菩提樹』まで、百科文庫を構成する全部で36の分野の本が、順番に並べられているのだ。・・・これらは発行順に並べてあり、人間の知識のすべての分野を包含しているのだが、互いに内的関連なしに並んでいる。かくしてライプツィヒ東部のインゼル通りで市街戦が演じられたカップ一揆の時には、弾丸は無差別にこれらの本の包みにも飛んできたというわけだ。・・・精神的創造がもたらした鉱山ともいうべきものが中央倉庫である。仮とじのものと売る状態にあるものと合わせて2800万冊から3000万冊の文庫が、これまで発行された6500点について保管してあるのだ。この(6500点)という数字とて、数百万部という発行部数に比べれば小さな数字かもしれないが、これはともかく一出版社が発行した出版物としては、最大の数字なのだ。」

上:レクラム社の新社屋
下:中庭の機械室

上:ハンス・ハインリヒ・レクラムの執務室
下:発送事務部門

上:百科文庫用中央倉庫
下:百科文庫発送倉庫

上:包装室
下:印刷室

5 第五千ナンバー記念(1908年)以後

ハンス・ハインリヒへの献呈の辞の贈呈

レクラム百科文庫が創刊されてから41年たった1908年、この叢書は第五千ナンバーを迎えることになった。この年二代目のハンス・ハインリヒ・レクラムに対して、いろいろな意味でレクラム出版社と縁のあった各界のひとびと1225人から、献呈の辞が贈られた。

この叢書の中身を実質的に決めてきた二代目当主は、「文庫」の永続的な発展を目指して、ほぼ40年にわたって営々と努力を重ねてきた。そこで彼がとりいれたものは、まさに百科全書的な内容のもので、その分野、題材、著作者なども、あらゆる時代、あらゆる世界から集められていた。そこには人類にとって普遍的で、永遠に残る世界文学から、様々な分野の学術書を経て、一般に人々が好んだ娯楽的で時流にかなった作品や、日常生活の役に立つ実用書に至るまで、まさに万華鏡のような壮観さを示していた。こうした五千ナンバーにのぼる文庫本の集積によって、この叢書の土台は、今や盤石なものになっていた。そしてこの叢書とその出版社の名前は、いまや誰一人として知らぬ者がいないほど有名な存在となり、その名声は遠くアメリカや日本にまで届いていたのである。

その意味で、「文庫」の第五千ナンバー記念と献呈の辞は、ハンス・ハインリヒにとって、そのライフワークの一つの到達点を示すものであったと、言うことができよう。もちろんこの後も彼はなお12年間生き、百科文庫もさらに発展していくのだが、一つの大きな区切りとして、それまでの努力がこのような形で報いられたことに対したは、彼も大きな満足感を味わったことであろう。

それではここで1225枚に上る献呈の辞の中から、ごく代表的なものを選んで、次に紹介することにしよう。
プラハ商業組合書記フリードリヒ・アドラー:
「私が子供のころ買うことのできた最初の本は、レクラム百科文庫の中のシラー作『ヴィルヘルム・テル』でした。当時この文庫の数はまだ多くありませんでした。それ以来私はこの文庫にたいして、心からの感謝の念を抱き続けています。若い頃心配げに自分のわずかな小遣いの額を計算した者だけが、この廉価で、しかも入念に仕上げられた世界文学の選集が、教養に飢えた魂にとってどんなに大きな恩恵を意味したかという事を、理解できるのです。そしてその精神的欲求を、私同様に、ほとんどレクラム百科文庫によって満たしていた人々の数は数十万に達しているはずです。」
辞書出版「ドゥーデン社」の創立者コンラート・ドゥーデン:
「<古きよきものに忠実たれ! 新しく、美しきものを心から喜べ!>
詩人のこの言葉を、あなたはご自分の国民文庫のモットーとして選ばれたかのようです。そのことに深く、深く感謝して」
詩人フーゴ・フォン・ホフマンスタール:
「この小さな文庫に感謝せずにいられましょうか。学校の机の中、野外、演習中の荷物カバンの中! どこにでもこの文庫はついてきて、私たちに限りない時間、喜びを与えてくれました。ちょうど15歳と20歳の間! この時期のことで、私は何にも増して<レクラム文庫>を忘れることができないでしょう」
作家兼劇評家アルフレート・ケル:
「15年前私は次のような言葉を(<シューマニアーナ>という表題で)公表しました。<もし私が文部大臣なら、レクラム文庫の発行人に高位の勲章を授けたであろう>」
作家トーマス・マン:
「レクラム文庫の創刊者および継承者に対して感謝の念を持っているものの中でも、私はその最たるものに数えられるでしょう。若い頃私は、愛読書の中の少なからぬものをレクラム文庫で読んだものです。そして私の本の蒐集がほとんどレクラム文庫ばかりであった、あの若くみずみずしい時代を、私は常に懐かしく思い出します。そうです、私に素晴らしい時間を与えてくれたあの赤黄色の小冊子をどんなに好きだったことでしょう。そのため私自身の作品が、そういう仕方で印刷されて、目の前に現れるのが、私の夢だったのです。この夢は今もって私には疎遠なものではありません。もし私の死後三十年たって私の本の中から一、二冊がレクラム文庫の中に収録されるとしたら、それはちょっとした霊魂不滅を示すものではないでしょうか。かくして過去のみならず、未来においても、私はこの出版社に深く結びついているのです」
トーマス・マンはこの二十年後の1928年に行われたレクラム出版社創立百周年式典の際にも、記念講演を行っているが、それについては後に詳しく述べることにしよう。
退役牧師、帝国議会議員フリードリヒ・ナウマン:
「私たちは詩人と哲学者の国民と呼ばれていますが、ドイツ人の強さも少なからずその成し遂げた精神的な業績に基づいているのです。もし人々が教科書と同じくらいに詩人と哲学者から学んでいるとするならば、それはどのようにしてでしょうか。あなたの百科文庫は、無数の人々によきドイツ魂を植え付けてくれたのです」
経済学者、社会学者ヴェルナー・ゾンバルト:
「・・・レクラム文庫の功績多き創刊者にたいして、その栄えある日に、私に世界文学の奇跡を教えてくれた、かの小さな赤色の小冊子への喜びと憂いと感謝に満ちた思い出を込めて」
政治家グスタフ・シュトレーゼマン:
「レクラム文庫の事業で、私には二つのことが重要に思えます。この文庫は若い世代に貴重な精神財を自らのものにするための道筋を示しています。それはわずかばかりの物をあきらめるだけで、かの貴重な物を手にいれられるということです。・・・それらが本屋のショーウィンドーから私たちにウインクしたとき、私たちはそれらをうっとりと見上げたものです。・・・こうして五千点のレクラム文庫が、その創刊者の日々の精神的な努力に対して、素晴らしい記念碑となるのです」
作家ヤーコブ・ヴァッサーマン:
「わかき日に貧しく、しかも苦労して貯めた乏しい金で作家たちの作品を所有することができた者だけが、レクラムの事業を正当に評価し、称賛することができるのです。私の場合もそれに相当していました。そして私の感謝の念を表明できるのは、喜びであります」
心理学者、哲学者ヴィルヘルム・ヴント:
「レクラム百科文庫を私は、かつてまだそう遠くない日に、一人の出版者の独自のイニシアティブによって達成された功労多い仕事として評価するものです。人気の高い文学を新たな中ぐらいな叢書によってさらに増やすといった、これまであまりにしばしば見られた試みでなく、あらゆる時代と民族が遺した文学のうちで現存する最高のものを、できる限りすべての人々の手に入るようにすること、そのことこそはこの小さな文庫本を、ドイツ人の手になる公益事業の中でも最先端に据えるべき栄誉の元なのです」

文庫再点検と三代目の登場

その長年の功績に対して二代目のハンス・ハインリヒがこのような形で報いられ、百科文庫は一つの頂点を迎えたわけである。と同時にそれまで拡張路線を突っ走ってきた、その方針がここで見直され、修正される必要が生じてきた。それを行ったのが、ハンス・ハインリヒの二人の息子エルンストとハンス・エミールであった。この三代目の二人は、出資者として1906年7月レクラム出版社に入社した。長男のエルンスト・レクラム(1876~1953)は、シュトゥットガルトで書籍販売業を学んだあとに、ライプツィッヒとミュンヘンの両大学で言語学、哲学、教育学を専攻し、1904年ドクトルの学位を取得した。そしてレクラム社に入社してからは、特に文学部門と編集部門を引き受けた。次男のハンス・エミール(1881~1943)は、とりわけ書籍印刷部門の訓練を、ライプツィッヒ、チューリヒ、エディンバラ及びアメリカで受けた。そのため入社してからも、主として印刷所経営の分野で活動した。

三代目当主エルンスト・レクラム

百科文庫の内容の再点検は、長男のエルンストによって、かなり長期的な仕事として始められた。息子たちが入社してきた1906年には、父親のハンス・ハインリヒは66歳になっていたが、なお矍鑠(かくしゃく)としていて、社の運営を息子たちに任せたりはしなかった。とはいえ若い世代の意見や提案に対しては、決して耳を閉ざすことはしなかった。

こうして、それまで比較的軽視されてきた自然科学や技術の分野に、1908年以降力が入れられるようになった。さらに国家学や政治学の分野も、その数年後には取り入れられることになった。自然科学シリーズの第一巻は、 ライプツィッヒ大学教授で、1909年にノーベル化学賞を受賞したヴィルヘルム・オストヴァルトの『自然哲学大綱』であった。この自然科学書シリーズの刊行はエルンスト・レクラムの個人的な嗜好によるものと言えたが、同時に時代の流れに乗ったものともいえる。シリーズは出版社の求めに応じて書かれたオリジナル作品であったが、1930年までに全部で35点出版された。その内容は例えば、『化学元素』、『電気』、天空』、『気候』、『光と色』、『植物学』、『進化論』といったものである。その数は決して多くはなかったものの、現代風の解説書として、カラーの挿絵を入れたりして、百科文庫に新風を吹き込んだ。

この再点検作業の結果、職業劇団や素人芝居用にたくさん出版されていた流行の戯曲作品の大幅な縮小計画が打ち出された。このジャンルは1904年には全体の四分の一も占めていて、とかくの批判にもさらされていたのであった。二代目ハンス・ハインリヒの芝居好きなどによって、栄えてきた分野であったといえる。
また同じく批判にさらされていた軽い娯楽作品は、1904年には全体のほぼ半分にも達していたものの、直ちに変革が実施されることはなく、第一次大戦が終了するまでは、なお現状維持の態勢が続いた。というよりは1912年に導入された「文庫の自動販売機」によって、もう一度大々的に宣伝販売されたのであった。これはレクラム社の経営戦略上必要な措置だったわけであるが、こうした販売方法にふさわしい作品として軽い娯楽作品がなお追い風を受けたものと言えよう。同時にこの時期には、オペラ・テキスト、古典文学、学術書、伝記、その他の文学作品も増大した。文庫自動販売機については第7章で詳しく取り上げることにする。

第一次大戦中の動き

1914年、第一次大戦が勃発し、二人の息子たちは戦場へと赴いた。これにともないこの年すでに74歳になっていたハンス・ハインリヒ・レクラムは、再び出版社経営の全責任を負うことになった。それまで順調に発展してきたレクラム出版社も、戦争に伴う様々な困難に直面することになった。しかしこの時も、先の自動販売機の導入と同じような、経営面での優れたアイデアが生まれたのであった。

それは一般に文化的な活動には障害になるとみられていた戦争という状況を逆手に取った商法であった。つまりこの時レクラム社に協力的な一人の軍人の言葉がきっかけとなって、「携帯用野戦文庫」というものが生まれたのである。

携帯用野戦文庫

これはレクラム百科文庫百冊分を箱に詰めたもので、前線の塹壕や後方の補給地あるいは軍艦、野戦病院、捕虜収容所などにいた兵士たちに向けて、送られたのである。そしてこれらの文庫は、兵士から兵士へと回し読みもされたという。一箱の値段は20マルクで、重さは6キログラム、「ご希望とあれば、寄贈者のお名前は無料で箱の上に印刷して差し上げます」という広告もつけてあった。周知のように第一次世界大戦は4年余りにわたって続き、とりわけ西部戦線などでは戦況は膠着し、一進一退の塹壕戦であったが、それだけに時間を持て余した前線の兵士の退屈を紛らす気晴らしが必要なのであった。そうした一般的な気分に答えるように、前線に送られた本の中には、低俗でいかがわしいものもたくさん混じっていたという。これらは荒廃した環境の中にいた兵士たちの一時的な欲望を満たすことはできても、鈍感になった精神や落ち込んだ気分を立ち直らせることはできなかった。

レクラム文庫はこれとはまったく異なっていたわけで、送られた文庫の中身を見ると、気晴らしの軽い娯楽文学と並んでまじめな古典文学ないし哲学作品も含まれていた。そのため研究者のマイナー女史によれば、「百科文庫は真の健康の泉であり、また低俗で無内容な読み物に対して闘う闘士であり、さらにそれらを駆逐するためにぴったりの手段でもあるとみなされていた」のである。

それではこの「携帯用野戦文庫」に対する読者の反応はどうだったのであろうか。これについては1914年から1918年にかけてレクラム社に寄せられた数千にのぼる読者の手紙が明らかにしている。そのいくつかを次に引用することにしよう。
ある手紙はレクラム文庫を「どんなときにも愛すべき仲間である」として、称賛している。またあるものは次のように書いている。「私たちと文庫とのかかわりがどんなものであったのか、戦争が初めて教えてくれました」さらに「各々それを背嚢(はいのう)の中に入れ、また人から人へと回覧しました」とか「ひとびとは文庫が届くのを、じりじりとして待っていました。」というのもある。そして「これは国民的な恩恵です」あるいは「戦争中の兵士の本の模範です」「最高の愛のプレゼントです」といった誉め言葉もある。そして「クルップ、農業、そしてレクラム、この三つのものこそ、すべての内外の敵に対する勝利を保証するものです。」ちなみにクルップというのは、当時大砲や武器弾薬を製造していたドイツのメーカーであった。

これに先立ち戦争勃発と同時に、「背嚢にファウストを」という合言葉のもとに、戦地に赴いた理想主義的な青年たちもいた。このためゲーテの『ファウスト』は、1914年以後の数年間で、最も売れ行きの良い本だったといわれる。実際、戦争という特殊な状況のもとで、前線でも銃後の国内でも、かえって人々が読書に目を向けるという側面があったことも指摘できる。そのことを立証するいくつかの証言を次に紹介しよう。「戦時中という神経を逆なでするような時期だからこそ、人々は書物の助けを借りて、よりよく静かな世界に引き込もる必要性を感じているのだ」「多くの人々は苦難と危機の時代になって初めて、精神的道具の価値について目を開いたのだ」「陣地戦は数多くの新しい読者を生み出した。そして戦争の終わりころには、いくつかの出版社の倉庫は空っぽになっていた」

このことからも分かるように、戦地に本を送っていたのはレクラム社だけではなくて、多くの出版社が競ってやっていたことなのである。例えば鉄道を使って戦地に本を送る「鉄道図書販売」に続いて、前線に書店を開くことも、1916年には当局によって許可された。この前線の戦地書店に対する開店許可は、たいていは大規模な書店にあたえられた。例えばベルリンのG・ジルケ出版社が「長期的に売れ続けるものと」して推薦したものは、『三国同盟国の刊行物に見る世界大戦の勃発』(10か月で2万6千部)とか、『写真で見る世界大戦』(月刊雑誌、1号の発行部数6万8千部)などであった。こうした傾向に対しては、戦争を利用した金儲け主義だとして批判する向きもあった。ただレクラム社としてもこうした風潮から超然としているわけにもいかず、戦争に関連した出版物も発行している。たとえば軍歌、戦争文学、戦時白書、戦時カレンダー、大本営報告、戦時法規、戦記ドキュメントなどの出版である。しかしそれらの中には、記録的ないし史料的価値を持ったものも少なくない。

一方百科文庫の新刊の年間発行点数の方は、戦争中には 平時よりもかなり減少し、平均して73ナンバーとなっていた。1880年、1890年代には140ナンバーに達していたから、そのほぼ半分にまで落ち込んでいたわけである。これは主として編集者などの人員が戦争に取られ、不足していたためである。しかしその逆に一点当たりの発行部数の方は大変な増大を見せていたのである。その理由はすでに著しく合理化されていた印刷部門の生産体制に応じて、従来からあった古典作品などの再販を、この時期に著しく増やしたことによるものである。

さらに戦争という特殊状況とレクラム文庫の世界的な名声との結びつきを示すものとして、次のようなエピソードがあったことも紹介しておこう。それは敵側が心理作戦の一つとしてこの叢書の人気を利用したという事である。つまりフランス軍の宣伝部隊は、レクラム文庫のの表紙を装った反対宣伝文書にドイツ軍の指導部やドイツ政府を批判する文章を書いたものを、照明弾に似た小さなブリキ筒の中にいれて、大量に雨あられとドイツ軍の陣地などへ撃ち込んだり、あるいは飛行機のうえから投下したりしたのである。

1917年の大改革(価格改定と外観の近代化)

1908年の第五千ナンバー記念の後レクラム社では、1912年における自動販売機の導入、1914年の第一次大戦勃発に伴う「携帯用野戦文庫」の発売といった具合に、販売戦略面で目覚ましい動きを示した。しかし文庫の価格面では、戦時経済及び貨幣価値低下の圧力を受けて、ほぼ半世紀にわたって守り続けてきた一冊20ペニヒという価格を、大戦中頃の1917年1月1日から25ペニヒに値上げすることになった。この廉価こそがレクラム百科文庫のトレードマークとなり、結局はその広範な普及の原因となってきただけに、百科文庫の歴史上初めてのこの値上げは、出版社の経営政策上つらいところであった。しかし第二帝政時代、長く続いてきた経済安定の時代は過ぎ去り、レクラム社としても背に腹は代えられずに、この措置に踏み切ったわけである。大戦末期の不安定な経済情勢を反映して、文庫の値段はさらに同年11月1日には30ペニヒに、翌1918年1月15日には40ペニヒに、そして同年10月1日には50ペニヒへと値上げせざるを得なくなった。

しかしレクラム社としてはこの時ただ値上げに踏みきったのではなく、文庫の外観をほぼ半世紀ぶりに改訂し、新しい時代にふさわしいように近代化したのであった。まず以前より大きく、鮮明な活字が使われ、判型もタテが1センチほど広げられ、行間もやや広くなって、読みやすくなった。また表紙には半厚紙が用いられるようになり、装丁も新しい時代にふさわしく枠装飾となった。この装丁を考案したのは、オイゲン・ディーデリヒ社のブックデザイナイーとして有名となったフリッツ・ヘルムート・エームケであった。視覚的にも本を大きく見せている枠組みの上部に、独特のドイツ文字で文庫の名前が書かれ、下部に新しくデザインされたレクラム社の商標が印刷されていた。最初の装丁が、かなりロマンティックな雰囲気を漂わせていたのに対して、今回のは太い線による枠組みによって、ぐっと現代風になっていた。

新しい装丁の文庫シリーズ(1917年以降)
 

新しい装丁の文庫の一つ 

古い装丁の文庫(1867年以降)

1917年11月には百科文庫は創刊五十周年を迎えたが、戦時下という事もあって、その記念式典はおよそ500人の従業員だけでひっそりと執り行われた。
その後1920年の3月30日、ハンス・ハインリヒ・レクラムは80歳で亡くなり、二人の息子が後を継ぐことになった。すでに準備されていた路線が、この時から始まるのである。

 

文庫本の元祖、ドイツの『レクラム百科文庫』(3)

第三章 レクラム百科文庫の創刊

1 古典解禁年 1867年

1867年のもつ意味

1867年は、わが国で言えば江戸時代最後の慶應3年に当たり、ドイツの政治史ではビスマルクによる統一(1871年)の4年前のことである。しかし文化史的に言えば、これまでほとんど注目されてこなかったことであるが、実は一つの大きな画期をなす年なのである。それはドイツの出版史の上ではもちろん、広く文化史・精神史的に見ても、15世紀半ばのグーテンベルクによる印刷術の発明に匹敵するものだとだと言えよう。グーテンベルクの発明は、それまで修道院や大学などの奥深くで僧侶や学者などの一握りの精神貴族が独占してきた書物というものを、広く一般の世界に解放した。これがなければ人文主義の知的運動や、宗教改革運動はあのような速度と広がりで普及することはなかったであろう。

これと同じように、1867年のいわゆる「古典解禁年」は、それまで少数の教養読書人によって独占されてきた古典作品を、廉価版の大量出版によって、それこそ広範な層の人々に解放したのであった。印刷術の発明から数えれば、400年以上の歳月がたっていたが、印刷された書物の普及は、19世紀後半になるまで、様々な障害に阻まれて、さほど進まなかったのである。ドイツを含めたヨーロッパ地域でも、このころまで交通・運輸事情は悪く、とりわけドイツでは通貨事情や書籍価格の高さなどによって、書物は一般の人々の手に届きにくかったのである。

いま述べた「古典解禁年」1867年のもつ意味を解き明かすには、少々専門的になるが、ドイツの出版史とりわけ出版権ないし著作権をめぐる歴史的な経緯について、ざっと振り返る必要がある。

18世紀末までのドイツの出版事情

著作物に対する法的保護という考え方はドイツでは、イギリスやフランスに比べて比較的遅い時期に成立した。15世紀半ばの印刷術発明から18世紀の後半に至るまで、ドイツでは著作権・版権などにはほとんど顧慮することなく、書物は自由に翻刻出版されてきた。翻刻出版というのは、オリジナル出版社から出された著作物を許可なしに、他の出版社がもとの形のまま出版するもので、そのためそれを非難する側からは海賊出版と呼ばれていた。海賊出版取り締まりの動きはある程度見られたが、それはむしろ検閲の方に傾き、しかもあまり効果がなかった。ところが18世紀に入って、こうした海賊出版に対する評価に根本的な変化がみられるようになった。つまり海賊版の被害者でもあった学者や作家などによって、精神的所有権に関する教説があいついで出されるようになったのである。そして海賊版論難の調子を強めるものも現れ、その際「闇印刷屋」とか「泥棒」といった表現すら用いられたりした。

しかしこうした言論が直ちに効果を現したわけではなく、むしろ17,18世紀を通じてこの翻刻出版は花盛りだったのだ。この時代ドイツには大小無数の領邦国家が支配しており、それらの国家では、自国の通貨をできる限り外へ流出させないことによって富国策を図ろうとしていた。当時ドイツ語圏の書物取り引きの方法は卸売りの段階では、現金を用いずに地域的に離れた書籍業者同志が書物を交換するという「交換取引」であった。当時のドイツの国というのは、日本の江戸時代の藩のようなもので、藩札のような別々の通貨が用いられていた。そのため交換取引なら自国の通貨が流出しないので、交換取引と翻刻出版を支持していたのである。

ところがドイツ語圏における出版の先進地域であったライプツィッヒの出版業者のなかには、古い交換取引をやめて現金取引へ移行する者もあらわれた。その際彼らは先の精神的所有権に関する学者や作家の教説を引き合いに出して、オリジナル出版社の出版権と、著作者の著作権を強く主張し、あわせて翻刻出版の禁止を訴えた。しかし一口にドイツの出版界といっても、18世紀後半の時点では一様でなかった。古い見本市都市フランクフルトを中心とした南ドイツやオーストリア、スイスなどのドイツ語文化圏では、依然として翻刻出版が盛んであった。

この翻刻出版は著作権・版権を顧慮する必要がないため、書物の価格を安く抑えることができ、あまり金がない読者にとっては、書物を安く入手できるというメリットがあった。これは後進地域に住む人々、あるいは経済的に恵まれない人々に対する文化の普及という観点から見れば、一概に非難されるべきものではないと考えられる。

その一方、新興の見本市都市ライプツィッヒを中心とした中部ドイツ及びベルリンを中心とした北部ドイツなどの先進地域では、近代的な取引方法へ移行した。そして一時はドイツ語圏の出版界は、南北に分裂して対立抗争が繰り返された。しかしやがて北ドイツのイニシアティブによって、全体として著作権制度確立へと動いていったのである。

著作権制度の確立とその後

著作権・版権に関する決定的な動きは、19世紀に入ってから起こった。翻刻出版を禁止する法律は、先進的なプロイセン王国では1794年に制定された。そして1827年から1829年にかけて、ドイツ連邦傘下の31か国との間に個別に翻刻出版防止に関する条約を締結していった。こうした積極的な動きに刺激されて、ドイツ連邦議会も1835年になって、ドイツ連邦議会全域における翻刻出版の禁止措置に踏み切ったのである。

次の段階として出版社の持つ版権ではなくて、著作者の持つ著作権の保護問題が浮かび上がってきた。この点について、1825年にライプツィッヒに生まれたドイツの出版社の全国組織は、1837年に著作権保護期間を著作者の死後30年と決めた。つまり「今後死亡する著作者の著作権保護期間は死後30年とする。また1837年11月9日以前に死亡していた全ての著作者の作品の保護期間は、出版社との特別の取り決めがない限り、その30年後の1867年11月9日をもって消滅するものとする」とされたのである。こうしてドイツにおける著作権制度は長い紆余曲折を経た後、1837年になってようやく確立したのであった。

ところでこの日付けは後に「古典解禁年」と呼ばれるようになったが、それはゲーテ、シラーをはじめとするドイツの古典作家たちがほとんど1837年以前に死亡していたため、その30年後の1867年以降には、著作権料を支払わなくても、古典作家の作品を自由に出版できることになったからである。その裏には当時ドイツでは、書籍の販売がかなり低迷していたという事情があるのだ。

たしかに18世紀末に起こった「読書革命」によって読者層は拡大したものの、書籍価格の高さなどが原因で、書物の購買者は基本的になお有産有識の教養市民層であった。ところがこの教養市民層の中に、1848年の三月革命の前ごろから、騒然とした世の中の動きに影響されて、じっくり書物を読む習慣を捨てるものも現れてきた。当時この階層の人々は強い政治的傾向を帯び、読むものと言えば主として時事的な新聞・雑誌といった状態になっていた。こうした状態は革命の挫折後もかなり長い間続いていたため、書籍の販売はかなり長期にわたって低迷を続けていたのである。

2 ドイツにあふれる古典廉価版 

各社競って古典廉価版の発行へ

1867年11月9日の直後、ドイツの町の書店は古典作品の廉価版の洪水に見舞われた。ドイツには昔からクリスマスに贈り物にする習慣があるが、頃はまさに本の「クリスマス商戦」の時期に当たっていたのだ。書店のショーウインドーにはこれらの書物が華やかに並べられ、書店では大勢の人々が直接買いに来たりしていたし、また大量の注文も押し寄せていたという。出版社の中には、一獲千金を狙った投機的な傾向のものもあったが、「一人でも多くの人に古典作品を提供しよう」という理想主義的な思いを持ったものも少なくなかった。その背景には、当然のことながら、一般市民の「精神への飢え」があったことも指摘しておかねばなるまい。

この古典廉価版シリーズの発行に踏み切ったのは、大手出版社ではブロックハウス、ヘンペル、マイヤー書籍協会、コッタ、そして中小出版社ではハンベルガー、パイネ、プロシャスカ、グローテ、ヴィニカー、ゲーベルそしてわがフィリップ・レクラム・ジュニア社であった。「古典解禁年」以前は、わずかな例外を除いてゲーテ時代のほとんど全てのドイツ古典文学の著作権・版権は、コッタ出版社などの少数の文芸出版社ががっちり握っていた。いわば古典作品出版の寡占状態が続いていたわけである。ところが「古典解禁年」が近づくにつれ、古典への読者の渇望からごく少数の出版社が吸い上げてきた巨大な利益の分け前にあずかろうとする出版社が、大規模な宣伝手段を通じて古典廉価版の発行を予告するようになっていた。そしてこれが原因で既得権を持ったコッタ社などとの間に激しい争いが生じたりしていた。

それにもかかわらず古典廉価版の大量発行は、全体としてかなりの成功を収めたようである。しかし時の流れとともに、長続きせず脱落していく出版社もあった。そうした中でレクラム百科文庫は永続していくわけであるが、当初は大手のヘンペル社とマイヤー書籍協会の廉価シリーズの方が注目されていたのである。ヘンペル社からは「全ドイツ古典作家国民文庫」全246巻が出された。ヘンペル社ではその際、著者によって最終的に認められた版を用いて、テキストの内容が完璧であることを心掛けたという。つまりたとえ廉価版といえども、内容的な質の高さは保ったわけである。またマイヤー書籍協会は古典廉価版の出版に参加するにあたって、昔から存在した行商人を用いて、売りさばく手段に出た。そしてこれが成功を収めたので、以後かなり長い間「文庫本」の老舗として、後々までレクラム社のライバルであり続けるのである。ちなみにマイヤー社の百科事典は、ブロックハウス百科事典と並んで、いまでもドイツの代表的な百科事典なのである。

レクラム百科文庫ーーささやかな出発ーー

当時はまだ中規模出版社の一つに過ぎなかったレクラム出版社が1867年に創刊したレクラム百科文庫は、数多くの古典廉価版の中にあって、当初は特に注目されたわけではなかった。他の多くの出版社は、その古典廉価版の発行に当たって、ドイツ出版業界の全国的な広報誌の役割も果たしていた「ドイツ書籍取引き所会報」に大々的な広告を掲載していたが、レクラム社がやったことといえば、ごくささやかなことであった。つまり同会報の第264号(1867年11月13日発行)の「ドイツ出版業界で発行された新刊書」という欄に、シリーズの最初の2巻に相当するゲーテの『ファウスト』第一部・第二部の題名が掲載されただけなのであった。

それでもレクラム社としてはその『百科文庫』の創刊には入念な準備を行い、11月9日の前夜までに第一期の35ナンバーが用意された。そして翌年1868年末までに120ナンバーが出版された。1868年1月には40ナンバーとなっていたが、この40ナンバーが、いったいどんな作品であったのか、見てみることにしよう。叢書のナンバー1はゲーテの『ファウスト第一部』であった。これは初版が5千部で、第2版同年12月に同じく5千部、さらに第3版は翌年1868年2月に1万部出された。ナンバー2の『ファウスト第二部』もほぼ同じようなペースで発行された。初版・第二版合わせて1万部は、わずか三か月で売り切れたが、第三版の1万部が売りきれるには1年半ほどの歳月を要した。

これに対してナンバー3のレッシング作『賢者ナータン』は、初版が3千部で、第二版は翌1868年4月発行であった。この第一期の40ナンバーの中には、ゲーテの前記2作品のほかに、シラーの『ヴィルヘルム・テル』、『群盗』、レッシングの『ミンナ・フォン・バルンヘルム』、ジャン・パウル、E・T・A・ホフマン、クライストなどが収められていた。これらの作品は、後世に残るドイツの古典作品であった。しかしこのほかにも、イギリス人劇作家シェークスピアのドイツ語版9点、そして文学史上は通俗作家扱いされているT・ケルナーの『七弦琴と剣』や、ミュルナー、クニッゲ、インフラントなどゲーテ時代の通俗劇作家の作品も収められていたことが注目される。つまりレクラム百科文庫は「古典廉価版」を称してはいたが、当初からその作品内容を文学史的意味合いでのドイツ古典文学作品に限らずに、シェークスピアなどの外国文学や、ドイツ人の人気作家の作品も進んで取り入れていたことが分かる。現在私たちの手元に残っているもっとも古い宣伝パンフレットには、第一期の作品40ナンバーを掲載しているが、その下に次のような言葉が書き添えてある。

「・・・しかしこのことによって<古典>というレッテルを貼られていなくとも、一般にそれに劣らず愛好されている作品を収録しないという事はありません。幾多のほとんど忘れられている良書が、再び日の目を見ることでしょう。その他の作品は、百科文庫にはいることによって、初めて読者の目に触れるはずです。外国文学や過去の文学作品の最良のものは、良いドイツ語に翻訳されてシリーズの中に、その位置をしめることでしょう」

百科文庫最初の40ナンバーの広告パンフレット
(1868年2月4日)

つまりこれがレクラム社の百科文庫に対する当初からの基本方針であったことが分かる。創業者フィリップ・レクラムの頭の中には、当然のことながら、この宣伝パンフレットの言葉に見られるように、狭い意味でのドイツ古典文学の枠を越えて、幅広い分野の作品を取り込んでいこうとの意図があったと考えられる。この点は後にこの叢書に収められる作品が、どんどん増えるにしたがって明らかになっていくところである。

ところで先に述べたブロックハウス、ヘンペル、マイヤーなどの大手をはじめとする数多くのドイツの出版社による古典廉価版の大量出版によって、コッタをはじめとする従来の老舗の古典出版社は大きな損害を被ることになった。そしてこれらの出版社が存続できるか否かの瀬戸際に立たされる原因の一つをなしたと言われる。それだけに老舗出版社側からの反発も強く、たとえばレクラム社に対しては、これら出版社や学者・教養人から「三文レクラム」という揶揄の言葉が投げつけられたりした。これは百科文庫に、当時としては破格に安い1冊2銀グロッシェンという値段が付けられたことからくるものであった。グロッシェンというのは当時のドイツで通用していた安い通貨の名称で、日本で言えば江戸時代の文(もん)に相当するものと言えよう。そのため三文の価値もない文庫という意味合いで用いられたわけである。ちなみに20世紀のドイツの劇作家ブレヒトの有名な芝居『三文オペラ』も、原題は『ドライ・グロッシェン・オーパー』である。

いっぽう小売書店の側もはじめのうちは、廉価なこの文庫の取り扱いを拒否する者もいたりして、あまり歓迎していなかったようだ。当時なお廉価版といえば、「安かろう、悪かろう」という一般通念が浸透していて、レクラム百科文庫も安売りの粗悪出版物とみなされる傾向が強かった。
しかし創業者のフィリップ・レクラムは、百戦錬磨のしぶとい商売人であり、またその理想追求の熱意には著しいものがあった。若き日に急進左翼リベラル派としてレクラムは、直接的な行動や「政治的小冊子」を通じて、ドイツ社会を民主化しようと尽力した。しかし三月革命の挫折による民主化運動の失敗の後、もっと広範な出版活動を通じて、この目標を間接的に実現しようとしたものと考えられる。その具体的な表れが、レクラム百科文庫の創刊なのであった。そこには「知識・教養の仲介を通じての民衆解放」という根本理念があったわけである。それに加えてこの人物は、少々の物事には動じない天性の楽天家であったようだ。かくして初期の困難な時期を経て、やがてこの叢書は読者によってその真価が理解されるようになり、次第にその地歩を確立していくのである。

3 レクラム百科文庫成功の諸要因

ドイツにおける古典愛好の伝統

レクラム百科文庫創刊の契機は、著者に印税を支払うことなく、古典作品を大量に出版することができるようになった、いわゆる「古典解禁年」であった。その背景としては当然のことながら、当時の一般の人々の間に古典に対する強い要望があったことが、考えられる。ここではまず、19世紀のドイツで古典文学作品が、そのように愛好された理由に目を向けることにしよう。

周知のようにドイツではビスマルクによる1871年の国家統一まで、政治的に分裂した状況があった。18世紀には300余の領邦国家がひしめいていたし、1815年のウィーン会議の後になってもまだ39もの領邦国家に分かれていたのだ。こうした国家分裂の結果としてドイツ人は、お互いの間の共通の自己理解を「文化国民」という形で発展させてきた。所属する領邦国家、制度、身分、階級、職業、地域など、様々な面で異なった人々を結び付ける共通の基盤として、文化というものが置かれたのである。

そしてその中心的な規範が、「教養」であった。この教養というドイツ特有の概念は、現在の日本でごく普通に用いられているのとは、かなり違ったニュアンスをもったものであった。この言葉は、19世紀初めの大知識人で、ベルリン大学の創立者でもあったヴィルヘルム・フォン・フンボルトの次の言葉に最もよくあらわされているといえよう。「人間の真の目的は・・・自らのもろもろの能力を一つのまとまりある全体に向けて、最高度に、しかも最も調和のとれた仕方で発展させることである」。つまりすべての人間が目指すべき最高の目標として「教養」を身につけることを掲げ、同時にそれがすべてのドイツ人たるものの最高の努力目標であるとすることによって、ドイツ人相互の間を結び付けようとしたわけである。

そしてそれを具体的に体現していたのが、18世紀末から19世紀初めの時期に輩出した、古典主義作家の作品だったわけである。こうした教養や文化は、はじめのうちはごく限られた人々の間でだけ保持され、共有されていたもので、一般の国民にとっては無縁な存在であった。ところが19世紀のドイツの歴史の中で、これらの概念は広く国民も共有すべき規範として掲げられ、徐々に国民の間に浸透していくようになったのである。そしてそのきっかけはやはり、具体的な政治社会運動にあった。

19世紀前半のいわゆる「三月前期」と呼ばれる時期には、国家の統一を求めるナショナリズムの運動と、封建的な制約からの解放を目指すリベラルな改革理念が結びついていた。そしてこれを具体的な運動に移した人物に、ゲルヴィヌスがいた。彼は封建的専制に抗議したゲッティンゲン大学の七教授事件に加わって大学教授の地位を失っているが、もともと自由国民主義の立場に立つ歴史家であり、またのちにフランクフルトの国民議会の代表ともなった人物である。このゲルヴィヌスは、『ドイツ人の詩的国民文学の歴史』という画期的な書物を著したが、その中で彼は「古典主義作家たちは、国民文化的アイデンティティーの宣伝家であると同時に、普遍人間的で、超国民的な人間性と自由の告知者であるとかいている。これによって彼は当時の自由国民主義的な政治社会運動の中心に、古典主義作家を据えたのである。

なかでもフリードリヒ・シラーは清廉潔白な人柄であったし、またその作品を通じて封建的な専制に対して強く抗議をし、厳しい批判を加えるなど、その後の自由国民主義的傾向に通じるものがあった。そのため19世紀を通じてこうした立場の人々によって、公共の祝祭行事の中で、象徴的存在に祭り上げられたのである。ちなみにあのベートーヴェンの「第九交響曲」に出てくる「歓喜の歌」の作詞者は、このシラーなのである。

その一方で封建的支配を維持する反啓蒙的、反革命的な立場から、読書階層の広がりに反対するプロパガンダもなお執拗に繰り返されていた。そしてリベラルな立場はとっていても、その知的な独占を破られるのを恐れていた教養市民層がいて、その地位が19世紀を通じて、極めて強力であったことも忘れてはならない。しかし「国民的財産」としての古典作家という考え方や、「古典作家崇拝のなかでの国民の理念的統合」というイデオロギー的な概念自体には、彼らとしても反対できるものではなかった。そして遅くとも1867年の「古典解禁年」には、これらは国民共有の財産になっていたといえよう。こうしてドイツにおける古典愛好の伝統は、次第にその輪を広げていったわけである。

優れた経営戦略

レクラムは百科文庫を創刊するにあたって、理念面、経営面で幾多の先人たちの試みを実に巧みに取り入れていたことが注目される。百科文庫は理念・経営両面で、18世紀後半に黄金時代を迎えた翻刻出版のシリーズ・プロジェクトの中に、その起源を見ることができる。理念面では、古典作家文庫としての基本的性格と教養のエンサイクロペディアとしての出版意図を、そして販売戦略面では、印税のいらない大衆廉価版という性格を受け継いでいる。例えば南西ドイツの出版業者シュミーダーが企画・出版した「ドイツ作家・詩人選集」(1774~1793、全180巻)は、百科全書の精神から生まれ、国民教育的な意図すら感じられる最初の標準的な文学叢書であった。これは啓蒙期ドイツ文学の全集であったが、完璧な本造りを目指していた点や、その対象を狭い意味での純文学に限らずに、歴史的、政治的、哲学的な散文や娯楽文学にまで広げていた点で、レクラム百科文庫の模範ともいえる存在であった。

いっぽうレクラムは書物の判型としては、小型の小冊子版を採用した。これはドイツの投機的な出版業者が、著作権保護のないアングロサクソン系の流行作家の翻訳小説を発行したときに用いたものであった。例えばシュトゥットガルトのフランク兄弟は、1827年イギリスの流行作家ウォルター・スコットの小説本を、1冊平均128頁という薄くて手軽な小冊子の分冊販売方式で、極めて安い値段で販売した。このため以前は本など手にしたことのない人々がひきつけられ、書店に大勢の人が押し寄せたという。

もう一つ古典廉価版の叢書という点でレクラムの先駆者となっていたのが、マイヤーの「ドイツ古典ミニ文庫」であった。そこでは販売に当たっては、叢書を全部買わせるという点で、旧来の方式を守っていた。いくら廉価版といっても叢書の全巻を買うことは、やはり買い手にとって負担が大きかったと思われる。狭い領域の専門的な全集ならばこれでよいのであるが、ジャンルを限らずにどんどん発行していく事は、この方式ではできなかった。

規格化と叢書の個別売り~現代ポケット・ブックの開祖~

これと対照的であったのが、レクラムの始めた叢書の個別売りという方式であった。この方式こそは、レクラム百科文庫の永続性を保証した、経営的に見て極めて優れたシステムなのであった。その優秀さは、現代のポケット・ブックや、文庫、新書の類いがすべてこの方式を採用していることによっても、保証されているといえよう。この意味でレクラム百科文庫こそは、現代ポケット・ブックの開祖ともいうべき存在なのである。レクラムは先人たちの様々な経験をふまえて、その百科文庫を小型の小冊子版にし、同じ装丁で、一定価格、定期刊行のシリーズ形成(叢書)にしたのであった。そして原則として一冊づつを完結したものにして、それらを個別売りにしたわけである。

19世紀ドイツの大衆的な文学市場の研究者であるゲオルク・イェーガーは、この百科文庫の特徴を「完結した巻と開かれた叢書」という言葉で表現している。この「開かれた叢書」という表現は、ジャンルの点で開放的な百科全書的な叢書という意味であるが、それはまた全巻を買わずに個別に買うことができる開放性を指した言葉でもある。また「完結した巻」というのは、長編の大衆小説を薄い小冊子にして売るという小冊子の形で分冊にして売るという当時流行していた販売方式ではなくて、「一冊に完結した本」の形で売ることを意味したものである。

「完結した巻と開かれた叢書」というレクラム方式は、従来の全集販売方式や分冊販売方式とは違った新しいやり方であった。この方式をレクラムはすでに1865年にシェークスピア全集を発行したときに採用していたのであった。当時他社の同種の全集との競争で負ける危険を察知したレクラムは、25巻にわたるシェークスピア戯曲作品を、一巻2銀グロッシェンで個別売りにした。これによってレクラムが経営的に大成功を収めたことは、「文庫本の元祖、ドイツの『レクラム百科文庫』(2)」の3(レクラム百科文庫への道)の中で述べた通りである。

とはいえこの方式はレクラムの全くの独創という訳ではなく、ただ一つ前例があったのである。それはライプツィッヒの出版社ベルンハルト・タオホニッツが1841年に創刊した『英米作家叢書』であった。この叢書は英米の作家の作品を英語のままでヨーロッパ大陸の読者に提供していたものである。これは1912年までに4、312点、1955年までに5、425点出版された。

半世紀、不変の価格システム

この叢書は、創刊以来ほぼ50年にわたって、本の大きさつまり判型及び装丁は同じであった。そして1冊20ペニヒという価格も不変であった。判型はタテ14・78センチ、ヨコ9.4センチで、これは現在の岩波文庫とタテの長さは同じだが、横幅が1センチ短いものであった。
1冊のページ数はさまざまで、短いものは48頁、長いもので128頁といった具合であった。しかし時とともに一巻のページ数は、平均して80頁ぐらいになっていたが、当時の廉価大衆小説本によく見られたような機械的な分量の規定という事は、決してしなかった。これは廉価版とはいえ、古典をはじめとした良質の作品を、内容的に短縮するようなことはせずに、しかも印刷や装丁など造本面でも、できる限り立派な形で人々に提供しようという、創業者の当初からの確固たる信念に基づくものであったのだ。

そしてこれを可能にしたのが、製作費のできる限りの節約と、大量生産体制の確立であった。レクラムは百科文庫の創刊よりかなり早い時期に、自分自身の印刷所を手に入れ、1850年代には聖書、辞典類、ギリシア・ロ-マの古典作品など、高い発行部数が見込め、しかも内容の変更なしに再販を重ねることができるものを、印刷出版していた。また書物の製作で当時もっとも高くついたのが、組み版であったが、この組み版を枠型で簡単に作ることができる、当時のドイツで実験的に使われ始めたばかりのステロ版製版を、レクラムはいち早く取り入れていた。これによって印刷面での合理化体制が整い、製本面でもハード・カバーは使わずに、厚紙の表紙を用いることによって節約を図った。

こうして技術面での大量生産体制への基盤は出来たのであるが、出来上がった本を大量販売するためには、どうしても価格をひくく抑える必要があった。そのための条件が、印税支払いを不要にするために、著作権保護がきれた著作家の作品か、はじめから著作権のない作品を選定することであった。しかしこれだけではまだ採算が取れるという保証はなかった。それは内容的に売れる作品と売れない作品とが存在するからであった。この点について、二代目のハンス・ハインリヒ・レクラムはその手紙の中で、「冷静な計算が必要である。重厚で、貴重な文学作品の発行を続けていくためには、流行作品の出版も必要なのである」と書いている。つまりこれは大量発行部数の作品の儲けで、少量部数の作品の高いコストを補っていくことによって、全体として叢書のは発行を可能にするものだ。このコスト計算を、百科文庫の研究者ゲルト・シュルツは「混合見積り」という言葉で表現しているが、まさにこれによってこの叢書はその永続性が保証されたのである。

こうした価格計算に基づいて、平均頁数が設定され、それを基本単位として発行順に通し番号が付けられていった。この通し番号制度(ナンバー・システム)によって、たとえば最初に発行された『ファウスト第一部』には1、つぎの『ファウスト第二部」には2という番語が付けられた。ジャン・パウルの『ドクトル・カッツェンベルガーの湯治紀行』には、内容が長い(172頁)ために、17,18という連続番号が付けられた。またトルストイの『戦争と平和』のような長大な作品に対しては、2966から2976までの連続番号が付けられている。この一つの番号が20ペニヒという価格設定は、その後長い間変更されることなく、第一次世界大戦中の1916年まで、ほぼ半世紀にわたって続いたのであった。

いっぽう一つの番号に一つの星印を与える価格表示制度は、1917年に価格改定されたときに導入されたもののようである。この時には文庫の装丁も大幅に変更され、それに伴い各巻の背表紙にこの星印が付けられるようになった。

1917年に改訂された装丁。その表紙は時代に合わせたように簡素なもの 

これは書籍販売業者にとっても、買い手にとっても一目で価格が分かるという便利な代物であった。ちなみに1927年創刊の岩波文庫も、この星印による価格制度をとりいれたのである。

半世紀間、不変の装丁

いっぽう表紙を含めた文庫の装丁も、ごく細かな点をのぞいて、半世紀の間変わらなかったのである。そしてこの叢書の名声が次第に高まるにつれ、この装丁はいわばブランド品としての品質を保証するものという風に、一般から見なされていったわけである。

その表紙のデザインはかなり装飾的で、左側にバラのつたかずらが二本伸びており、それは下の方で葉とつぼみをつけている。そしてつたかずらには文字の書かれた帯飾りが、下から上へと絡まるようにして伸びている。その帯飾りには「各巻とも2銀グロッシェン(のちには20ペニヒ)で、個別に買えます」と書かれている。さらに上部には大きな横書きの文字で百科文庫と書いてある。中央には横書きで本の題名と著者名が、そして一番下に出版社の名前が刷り込まれている、といった具合である。

百科文庫初期の装丁。『ファウスト第一部』

この表紙について、レクラム百科文庫とレクラム出版社について詳しい歴史を残しているアンネマリー・マイナー女史は、次のように述べている。

「ロマン主義の息吹すら感じさせる装飾模様のついた表紙は、この時代が要求していたものに完全に対応していた。ハンス・ハインリヒ・レクラムのデザインに基づいたと言われる、木版の曲がりくねった装飾模様については、人々はその独特の不完全さの中に、かえって完璧さを見ていたのだ。それは一種の品質を保証するマークとなり、手にした文庫を人々は信頼することができた」

もう一つ表紙に関して注目すべき点は、その色彩にあった。これもずっと長い間、肌色であった。つまり岩波文庫の表紙とほぼ同じものである。この色が選ばれたのは、何よりもできるだけ光に耐えて、いつまでも色あせないというのが理由のようであった。この点に関してもマイナー女史はつぎのように述べている。

「アントン・フィリップ・レクラムは、その叢書の造本と装丁に対しても、市場に出す前に十分考えていた。彼はすでに1865年以前に、その表紙をできる限り光に耐えられる色彩にするために、無数の実験を繰り返していたという事を、我々は知っている。それは長い事倉庫に保管しておくと文庫の表紙が色あせてしまって、売りにくくなることを考えてのことであった。こうして光に強い鉛丹から作られた目立たないオレンジ色が、もっともふさわしい色として選ばれた。すでにシェークスピア全集の表紙にこれが選ばれていたのだ。<二銀グロッシェン>という定価が刷り込まれている文庫本を、今なお所持している人は、いかに良く元の色が残っているかという事を知って、驚くことであろう」

文庫の内容的な多様性

百科文庫の大きな特徴は、「ジャンルの点で開放的で、百科全書的な叢書」という点にあった。そしてこの点こそが、それ以前に一般に流行していた「内容的に限られた全集的な叢書」と決定的に異なる特徴なのであった。しかもこの開放性こそが、叢書発行の半永久的な継続性を保証したのであった。

まずレクラム社は、価格、判型、装丁などの外観の点で、ほぼ50年間にわたって同一の形態を保持することによって、だれでもすぐに思い出すことのできる最大級の銘柄品に、百科文庫を仕立て上げた。しかし書物は装飾品ではないので、内容が伴わなければ、銘柄品とは認められないであろう。そのためレクラムは当初から、テキストを短縮するようなことは決してせず、また誤植などもないように配慮し、さらに活字の選定にも十分に気を配った。

同時にレクラム社では、「知は力なり」といった標語を援用して、精神への信頼を通じて大衆にサービスするという考え方を普及させた。こうすることによって、知識人からレクラム社に対して、「社会的理想主義」を持った出版社、というイメージが与えられるようになった。これは創刊当初の「三文レクラム」という揶揄に比べれば、大きな変化であったといえよう。

しかし全体的な経営的観点から見れば、実に色とりどりの多様なジャンルを抱えていた点にこそ、百科文庫の半永久的な継続性を保証する重要な要素があったわけである。つまり百科文庫全体の成功への処方箋は、それぞれのジャンルに対応した市場への最大限の適応の中にあったのである。そのためレクラム社の出版戦略は、時代の変遷とともに、それぞれの作品が対象とする様々な読者の期待や利用法に応じて、異なっていくのである。

文庫の内容的な多様性は、実は創刊まもなく出そろった40ナンバーのなかにもみられたことである。つまりそこには、レッシングからゲーテ、シラーを経て、クライスト、ジャン・パウルと続くドイツ古典文学のほかに、シェークスピアなどの外国文学やドイツの人気作家の作品も含まれていたわけである。この方針はその後も守られ、ドイツ古典文学を中心に、ギリシア・ロ-マの古典作品、その後のヨーロッパ諸国の中世から近代にかけての主要文学作品の翻訳もの、どんどん採用された。

これらは理念的に見れば、ゲーテのいう「世界文学」の主要な特徴を備えたものと言える。ただしその裏には印税(謝礼)支払いの不必要な作品の選択という、経営的な計算もがっちりとなされていた点を、見逃すわけにはいかない。つまりレクラムにあっては、高邁な理想とそれを実現するための現実的で冷静な計算が、常に二人三脚のように、連れ添っていたという事である。

4 創業者と二代目の横顔

その後のアントン・フィリップ・レクラム

アントン・フィリップ・レクラムは百科文庫を創刊したとき、その年齢はすでに60歳に達していた。60といえば、普通の人にとってはその仕事から引退して、ゆっくり余生を過ごす年齢であったが、この不屈の人物はこの年から、そのライフワークに向かって踏み出していったのであった。そして1896年に89歳でなくなるまで、およそ三十年間にわたって現役でそのライフワークに全力を傾注していったのである。

その際アントンは、一人息子ハンス・ハインリヒ・レクラムの協力を全面的に受けていた。百科文庫創刊のアイデアはもちろん父親のフィリップのものであったが、この事業を現実のものにし、実際に運営していったのは、父と息子の両者であった。息子もこの事業に初めから、全面的に参画していたのである。この二人の心からの協力があったからこそ、「ささやかな地点」から出発したレクラム社の叢書は、他社の停滞をよそに、その後急速な発展を見せるようになったわけである。

百科文庫発行に当たって路線の大筋は父親が引き、その運営や販売の指導も自らになったが、編集の仕事や作家、読者との応対は息子に任せた。そしてこの二人はともに、仕事への情熱、持続性、勤勉さそして自らを持す厳しさなどの点で、共通性を持っていた。従業員に対しても二人は高い要求を突き付けたが、従業員のほうも二人の厳しい仕事ぶりを見て、納得して従ったという。

創業者晩年の肖像

父親のフィリップは、創業者特有の頑固さを身につけていた人物で、家庭でも仕事場でも、決して人当たりのよい人物とはいえなかった。年と共にその頑固さは募り、周囲の人々に対して、無愛想で独断的な態度を見せることも少なくなかったようだ。しかしそれはあくまでも表面的な態度を見てのことで、暖かさや人間的な感情に欠けていたわけではなかったという。実はその従業員に対しては、暖かい心遣いの気持ちも持っていたし、数は少ないながら良い友人にも恵まれていた。そうした友人たちは、生涯彼に忠実であったが、フィリップ・レクラムはその人たちを、冗談で「教授先生」と呼んでいた。

その反面、ユグノーの末裔として、独立不きの性格を持ち、体制や強いものに反抗する気質から、敵も少なくなかった。若い頃からの幾多の闘いを経て、十分強くなり、十分頑固になっていた。そして周囲のことは気にも留めず、自ら信じる道を真っすぐ進んでいったのである。これはその商売の遂行に当たっても言え、書籍販売業者とのやり取りでも、愛想を振りまくことはせず、業務本位で応対したため、不満を漏らす業者もいたことを、息子のハンスは伝えている。フィリップ・レクラムにとっては、百科文庫の発展だけが関心事であって、その他のことを配慮する気持ちはなかったようだ。

それだけにこの人物は、自分のライフワークが順調に軌道に乗り、発展していくまでに、なお時間がかかることも知っていたのだ。時代に先駆けて進むものは、自分の努力の正当性となしとげた業績の偉大さが認められるまで、時を待たねばならぬものだ。そしてやがてその時が彼にも訪れたのである。百科文庫はその後着実な歩みを見せ、発刊点数も増え続け、この創業者が1896年1月5日に89歳で亡くなったときには、3、470ナンバーに達していた。これは彼自身の予想をはるかに上回るものだったという。しかしその発展はこれで終わったわけではなかった。その黄金時代はむしろ彼の死後にやってきたのだ。

ハンス・ハインリヒ・レクラム

二代目のハンス・ハインリヒ・レクラム(1840~1920)の采配のもとで、父親の事業はドイツ文化にとって欠かすことのできない重要な教育・教養の手段となった。そしてその名声ははるか海外にまで届くようになった。息子ハンス・ハインリヒ・レクラムの生涯は、父親アントン・フィリップ・レクラムに比べて、あらゆる点で平坦で、安定したものであった。父親が苦労の末に築き上げたものを、息子は継承し、発展させていけばよかった。

二代目当主ハンス・ハインリヒ

とはいえこの息子は、父親とともにほぼ三十年にわたって仕事をしてきたし、もともとの優れた素質と厳しい教育のおかげで、一人っ子にありがちな父親の遺産を食いつぶす、といった危険に陥ることにはならなかった。それだけに父親の生存中は、自由に動き回ることができなかったようだ。父親の極度の厳しさと独断的なやり方は、青年時代を過ぎてからもなお、息子を苦しめたという。それにもかかわらずこの人物は、父親がその過酷な生存競争の中で厳しさと荒っぽさの背後に隠し、めったに人に見せなかった愛すべき性質、愛想のよい態度、心のやさしさそして善意を、決して失うことはなかった。

と同時に彼は父親から、その職業には好都合ないくつかの別の性質を受け継いでいた。それはつまり勤勉さ、義務に忠実な態度、商人としての有能さ、持続力そして自由で真っすぐな心根などであった。もちろん彼には最良の職業教育が施された。まず父親のもとで印刷技術上の知識を習得し、同じライプツィッヒのヒンリヒス書店で書籍販売の訓練を受けたあと、なお徒弟としてとしてチューリッヒとブリュッセルで出版販売の修練を積んだ。この外国での経験は、のちに外国での百科文庫の販売に大いに役立った。こうして6年間にわたる修業期間を終えた後に、ハンス・ハインリヒ・レクラムのは父親のもとに戻ってきた。それは1868年、28歳のときであったが、この時彼はレクラム出版社の出資者となったのである。

ハンス・ハインリヒは父親のような激情家ではなく、冷静で穏やかな性格であったが、その一方で仕事熱心で、粘り強かった。そして義務に忠実な態度が、その事業の推進力となっていた。またその知性と教養を自分の仕事に反映させることができたし、書籍販売面での能力も十分あった。さらに文学や演劇に対する知識やセンスも持ち、価値があるものや必要なものを見分ける能力から、時代の要請に従う柔軟さや、未来に対する洞察力も兼ね備えていた。これらの能力はもちろん百科文庫の拡充に当たって、大いに役立ったことは言うまでもない。

今日不完全な形で残されている商業書簡から、彼の業務が百科文庫の初期の時代からすでに作家や読者との応対に限られていたわけではなく、印刷や販売の仕事にも携わり、注文を受ける仕事もしていたことが分かる。そして叢書の内容をどのようなものにしてくか、そのジャンルをどのように拡大深化させていくか、ということはもっぱら彼に任せられていた。レクラム社に寄せられる作品の審査、そしてそれらの原稿の採否も彼に任せられていた。

後に同社が大きく発展してからも、最後の決断は彼が行ったいたのである。また彼はしばしばいろいろな出版計画を携えて、それにふさわしい作家や学者を訪れた。そして叢書に収録するのにふさわしい作品を自ら探して、中身を検討したり、印刷の校正刷りを自ら読んだりもした。

父親の死後は外部組織との折衝や百科文庫の宣伝にも全力を傾注して、その売り上げを著しく伸ばすことに成功している。しかしその晩年に訪れた第一次大戦と戦後の窮状は、レクラム社の土台を揺るがすものであった。とはいえ彼はその二人の息子フリップ・エルンストとハンス・エミールの協力を得て、この困難な時期を克服したのであった。

そしてその生涯の間、いろいろな栄誉を受けたりもしたが、自分からは外部に売り込もうとすることはせず、終始控えめな人物としてとどまった。みずから語っているように、「あらゆる配慮、努力そして成功への報酬は、常にただ仕事への喜びと広く国民のために役立つことができるという誇らしい意識の中にあった」わけである。そのためレクラム社の従業員も、彼のことを進んで手助けしてくれる父親のような存在として、敬愛していたようである。そしてこの社長を心から信頼して長年仕事をした社員も少なくなかった。とりわけ支配人のフリードリヒ・ヴィルヘルム・ビンダー(1889~1924在社)、百科文庫の編集員のユリウス・R・ハールハウス(1895~1897)、ヘルマン・メーゼリッツ(1897~1925在社)、カール・ヴィルヘルム・ノイマン(1908~1935在社)などがそうであった。

ハンス・ハインリヒ・レクラムはその晩年の1908年に、百科文庫が五千ナンバーに達したのを記念して、レクラム社と縁の深い1、225人から、心のこもった献呈の辞をおくられた。これらの人々は、文学界、演劇界、音楽界、政界、経済界と多岐にわたっていた。そのいずれも百科文庫と自己との個人的なかかわりについて感謝の念を込めて語り、さらにこの叢書が持っている意義について、それぞれの立場から賛辞を呈しているわけである。その中には文学者のフーゴ・フォン・ホフマンスタール、トーマス・マン、リカルダ・フーフ、経済学者のヴェルナー・ゾンバルト、退役牧師で帝国議会議員のフリードリヒ・ナウマン、ワイマール時代の名外相グスタフ・シュトレーゼマン、辞書で知られた出版人コンラート・ドゥーデンなどの名前も見られる。

文庫本の元祖、ドイツの『レクラム百科文庫』(2)

第2章 創業者 アントン・フィリップ・レクラム

1 その先祖

ユグノーの出身

レクラム百科文庫が創刊されたのは、1867年11月9日であったが、これは日本で言えばまさに明治維新の前年つまり江戸時代の最後の年、慶應3年のことであった。この時創業者のアントン・フィリップ・レクラム(1807~1896)はすでに60歳になっていた。彼が若干21歳でその出版社を創立したのは1828年のことであったから、のちに世界的な名声を得ることになる叢書を創刊するまでには、ほぼ40年かかったわけである。その初期の出版活動については、この後詳しく述べることにして、まずは彼の先祖のことから明らかにしていこう。このことは彼の出版活動全体と、『レクラム百科文庫』創刊の理念と深くかかわってくるからである。

レクラムの先祖は16世紀の初めころ、フランス南東部サヴォア地方に住んでいたが、当時はまだレクランと称していた。しかしこの世紀に起こった宗教改革で、レクラン一族はカルヴァンの新教に魅かれて、すぐ近くのジュネーヴへ移住した。その当主ジャン・レクランは1532年9月6日、ジュネーヴの市民権を獲得したが、息子たちや孫たちも引き続きこの新教徒の町に住み続けた。やがて18世紀になって、一家の中からアイルランドを経由してベルリンへ移住する者が現れた。彼らの職業は商人、説教師、金細工師と様々であったが、いずれも先祖伝来の信仰と生き方に忠実なユグノー(フランス人新教徒)なのであった。つまりその堅い信仰ゆえに、権力におもねない自由な気風を保持していたのである。

レクラム家の家紋

このことは一家の家紋にもよく表れている。それは日本の家紋のような図形化されたものではなく、かなり具象的な図柄となっている。つまり兜の上に鶏が羽を広げて止まり、その下の盾の中にのライオンが配置されたものである。そしてその下に「恐れずに警戒せよ」という格言がフランス語で書かれている。これは聖書の中の有名な言葉なのであるが、自由闊達で、権力を恐れないが、同時に周囲に注意深く目を光らせていくこうした生き方は、創業者アントン・フィリップ・レクラムによっても引き継がれている。
創業者の曽祖父にあたるジャン・レクランはアイルランドのダブリンで生まれ、金細工師として初めドイツのマグデブルクにやってきたが、やがて1739年にベルリンで大規模な宝石業を始めた。そしてプロイセンのフリードリヒ大王の知遇を得て、商売を発展させ、その息子のジャン・フランソワ・レクランは、宮廷お抱えの宝石商となった。

創業者の父親カール・ハインリヒ・レクラム

そしてこのジャン・フランソワの末の息子シャルル・アンリ・レクラン(1776~1844)が出版業者となったのである。彼は北独ブラウンシュヴァイク在住の教育者で、青少年向け図書も執筆していたヨアヒム・ハインリッヒ・カンペが経営していた教科書出版社で修業を積み、1803年にその姪ヴィルヘルミーネ・カンペと結婚した。しかしこの人物はさらなる書籍業の習得のため、フランス革命の最中にあったパリを訪れている。自由の気概をもったユグノーの血は、彼の中にも脈々と波打っていたと見え、ジャコバン派の立場から恐怖政治の舞台を目の当たりにしたのであった。つまりそこで彼はロベスピエールが断頭台の露と消えた様を目撃したのである。そしてこの革命家の首を切った刀を生涯保管し、さらに遺言でそれを次男のカール・レクラムに遺産として残している。

その後ライプツィッヒに移ったシャルル・アンリ・レクランは、1802年11月8日、26歳で独立の書籍出版販売店を、町の中心に開設した。この時名前をドイツ語風にカール・ハインリヒ・レクラムと変え、主として英仏の文学書を販売する傍ら、学術書や雑誌の出版も行った。その翌年結婚したが、全部で8人もの子供をもうけている。そして68歳でなくなると、その店はそれまで支配人をしていた義理の息子ユリウス・フリードリヒ・アルテンドルフが受け継いだ。この書籍出版販売店は1828年に「カール・ハインリヒ・レクラム・シニア」と称するようになり、1872年まで存続した。1828年に店名が変更されたのは、長男でのちにレクラム百科文庫を創刊することになるアントン・フィリップ・レクラムが、この年独立して別の出版社を設立したからであった。

2 アントン・フィリップ・レクラムの初期出版活動

職業生活の開始

わがアントン・フィリップ・レクラムは、1807年、カール・ハインリヒ・レクラムの長男として生まれたわけであるが、その若き日の肖像画を見ると、そこには単なる書籍業者の姿を越えた、知的な活力が感じられるのである。

若き日のアントン・フィリップ・レクラム

その明晰でしっかりした目つき、固く結ばれた口元そして高く突き出た額、これらはこの人物の輝くばかりの知性と気品を示していると言えよう。そしてその血の中には、先祖伝来の独立不きの魂と権力への抵抗精神が流れていたのであった。1823年から4年間、十代の彼は父親と同じようにブラウンシュヴァイクで、みっちり修業を積んだ。それは叔父のフリードリヒ・フィーヴェークが経営していた古典作品の出版社であった。その義理の父親のJ・H・カンペから製本所と活字鋳造所付の教科書出版社も引き継いだため、この叔父に当たる人物が経営する店で、アントンは書籍の出版販売業を総合的に習得することができたのであった。

父親のカール・ハインリヒ・レクラムは、息子のアントン・フィリップの才能と人柄を十分信頼していたようである。なぜなら若干21歳でその息子が独立の商売を始めたいと申し出た時、当時としても大金の3千ターラーを用意して、貸与したからである。この金でアントン・フィリップが手に入れたのは、ヨハン・ゴットロ-プ・バイガングが1795年に、ライプツィッヒ市の中心街に設立した「文学博物館」であった。これは内部に「読書ホール」、「貸出文庫」、「雑誌貸出所」そして小さな出版社を持った施設であった。

ライプツィッヒの「文学博物館」

この施設は「学問、芸術そして読書の愛好者」のために建てられたのであったが、その経営は当初から苦しかったと言われる。そのためバイガングはやがてこれを手放し、二代にわたる後継者に引き継がれた後、1828年4月1日、未経験の若者であったアントンの手に落ちたのであった。当時80人いたライプツィッヒの出版者の中で彼は最も若かったという。その建物は、若き日のゲーテがよく訪れ、『ファウスト』の中にも登場する有名な地下酒場「アウアーバッハス・ケラー」の隣にあったが、そこには7万冊の蔵書と百種類を超す新聞、雑誌、学術雑誌が保管されていたという。
この「文学博物館」は、出版社としての機能は付随的なもので、むしろ書籍や新聞・雑誌の閲覧所ないし貸出所の機能のほうが強かったようである。これが博物館と呼ばれたのは、立派な建物の中に書籍や雑誌のほかに、美術品や鉱物標本、物理化学の実験道具などが陳列されていたことからくる。しかしその内部は、いわば反権力的ないし反体制的な集会所の観を呈していたと言われる。「博物館」内の「読書ホール」は単なる読書室の域を超えた一種の「読書サロン」なのであった。これは啓蒙主義とフランス革命の思想的産物といえるもので、18世紀末ごろからドイツの各地に花開いたものだが、地域によってさまざまな名称で呼ばれていた。

そこにやってきた人々は、新しく出た本や新聞・雑誌を読んだり、それらを巡って互いに意見を交換したり、議論したりしていた。レクラムの施設もそうしたものの一つで、そこには文学や政治に興味を持ったライプツィッヒの全ての人々がやってきて、話し合う出会いの場でもあった。そこでは批判的な考えや意見が自由に、しばしば極めて激しく交わされたという。そうした議論は談話室ではなくて、読書室で行われたため、本を読んでいるひとには、さぞうるさかったことであろう。

レクラム出版社とも縁の深かった作家のトーマス・マンは、そこの雰囲気について、1928年のレクラム出版社創立百周年記念講演の中で、生き生きと伝えているので、次に引用することにする。
「そのいわゆる博物館は、危険で生き生きしたところで、講演と討論と批評の場所であった。偽りと信心ぶった秩序が支配していた古き良きライプツィッヒにあって、反抗的な人々がすべてそこに集まり交流した。そこでは作家や市民がわずかな入会金を払って、ドイツや諸外国の新聞を読み、大規模な貸出文庫を利用し、いろいろと思索をめぐらしながら、意地の悪い喜びにふけることもできたのだ。」

こうした性格を持った「文学博物館」の若き所有者は、このようにしてそこに出入りする人々のリベラルな考えや進歩的な思想を速やかに体得していったことと思われる。

民主化運動への傾倒

若き出版者アントン・フィリップ・レクラムは、こうした環境の下でその職業生活を始めたのであった。だだその「文学博物館・出版社」の方は、当初はさしたる出版計画もなく、軽い娯楽作品や詩集、ユーモア小説、風刺作品、実用書などを出す傍ら、時事的で、政治的な小冊子なども手掛けていた。二十代のレクラムにとっては、金儲けを目指した地道な出版活動よりは、むしろ情熱の対象としてのアクチュアルな現実政治の方に、より強い関心があったようである。1815年のウィーン会議後のドイツは、いわゆるメッテルニヒ体制のもとの王政復古時代にあり、自由や人権、あるいは民主主義ないし祖国統一を求める人々の要求や運動は、ことごとく弾圧され、保守反動の静けさが支配していたの言われる。

しかしこうした時代ににあっても、反動期への幻滅の後に、やがて憲法の枠内での政治的諸権利の拡張への要求が、住民のより広範な部分をとらえていった。そしてこれら諸要求と諸邦政府の反動的な態度との対立は、ドイツにかつて見られなかった自由主義運動の急進化をもたらした。レクラムが住んでいたライプツィッヒはドイツの出版のメッカであるのと同時に、民主化運動も極めて盛んであった。たとえば1830年に起きたデモで一人の若者が死亡したが、反対運動の指導者たちは警察の横暴を弾劾し、反対運動を高揚させようとした。その最も熱心な人間の一人が、レクラムなのであった。彼の「読書ホール」では、警察に向けて激しい言葉が飛び交い、殺人事件の背後関係をめぐって激しい議論が続いたという。
こうした民主化運動に対しては、若き日のレクラムに限らず 総体としてライプツィッヒの書籍業者や印刷業者が、指導的な役割を果たしたことが注目される。全ドイツ出版界におけるライプツィッヒの指導的な地位と彼らの職業の持つ地域経済的な重要性は、当局としても十分認識していた。そのためそのことを利用して、彼らは政治的な干渉や検閲に反対し、あわせて言論出版の自由を求める運動をエネルギシュに展開したわけである。しかしこうした要求が政治面での市民の解放へと発展し、やがて王国の貴族支配体制が崩壊することを恐れた当局側は、なんだかんだと言い逃れをして、約束を引き延ばしていったのである。

次いで1831年から翌年32年にかけて、ドイツ国内の各地でポーランド人難民に対する支援活動が見られたが、これにもレクラムは積極的に関与した。周知のようにポーランドは18世紀末以来、ロシア、オーストリア、プロイセンという大国によって分割支配され、独立を失っていたが、祖国の解放を求めて何度も闘争を繰り返してきた。この時もポーランド軍は強大なロシア軍に対して立ち上がったが、この度も戦いは成功せず、敗北した兵士など難民がフランスなど西ヨーロッパへ逃れる途中ドイツ領内を通過するという出来事が発生した。これに対してドイツ各地で自然発生的に同情デモや連帯行動が起きてきたわけであるが、ライプツィッヒでも難民・亡命者のために「ポーランド人支援協会」というものが、リベラルな市民・知識人によって設立され、八か月にわたる活動期間に一万ターラー以上を集めて、難民に提供した。レクラムはこの活動に加わったのであるが、出版人として難民に同情し、支援する内容の詩集や体制批判的な小冊子を自分の出版社から出したりもした。

しかしやがてポーランド人のドイツ領通過は禁止され、支援活動も停止することになった。とはいえ若きレクラムにとってこの活動は決して無駄ではなかった。というのはこの時の出来事を通じて、のちに「若きドイツ派」と呼ばれる旧新自由主義思想を持った文学者グループの一員として名をあげることになるハインリッヒ・ラウベと知り合うことになったからである。この作家はポーランド国民の解放闘争に感激し、ロシア皇帝、プロイセン国王そして自国民を裏切ったポーランド貴族に対しても厳しい批判の矛先を向けてきた人物であった。自分と同年齢のこの青年作家と知り合ったレクラムは、たちまち意気投合してその作品を出版したのであった。それは当時のヨーロッパの反動的な支配体制を厳しく糾弾したもので、その第一作『ポーランド』は検閲を避けて、レクラムは別の出版社の名前で出すという用心深さを示した。この作品は結局、発行禁止処分を受けたが、同業者仲間の連帯感に支えられて、当局の追求を免れたレクラムは、その第二作『政治書簡』を、こんどは自分の「文学博物館・出版社」から出版したのである。さらにレクラムはラウベに対して、ある新聞の発行を促した。それは『優雅な世界のための新聞』という名前で発行されることになった。ラウベはこの発行を1833年、1834年にわたって続け、『若きドイツ派」の代表的な機関誌にした。またラウベの演劇的才能にも注目したレクラムは、のちに再び出版面で関係を結び、そのいくつかの作品を『レクラム百科文庫』の中に収録している。それはともあれ、この時レクラムは初めて、書物を通じて理想や理念の普及に寄与し、自由でより良い世界を築くことに協力しようという、決意を固めたようである。

「フィリップ・レクラム・ジュニア出版社」

こうして出版業に専念するために、1837年彼はその「文学博物館」を売却し、同年7月から出版社の名前も「フィリップ・レクラム・ジュニア出版社」と変更した。ジュニアという言葉を入れたのは、先に紹介した父親の出版社と区別するためであった。ちなみにこの出版社名は、第二次世界大戦後の今日なおシュトゥットガルト近郊にあるレクラム社の正式名称として残っている。

思想的に急進的で、過激であったレクラムも、出版人としては決して無鉄砲ではなかった。先に紹介した家紋にもあるように、「恐れずに警戒せよ」という家訓をアントン・フィリップ・レクラムも守っていたようである。彼は大急ぎで事を進めるという事はせず、経験や失敗によく学び、その世界を広げることに努力した。そして職業生活の基礎が固まった三十歳になって、彼は結婚したのであった。

このころ彼は自分の出版社の経営基盤の確立という問題に、真剣に取り組むようになった。1839年彼は金持ちの友人たちの金銭的支援を受けて、ライプツィッヒのハーク書籍印刷所を買い取ることに成功した。そして自分のところの出版物はすべて、この印刷所で印刷することにした。その際彼はこの印刷所の効率的な運用という事を考えた。そのために高い発行部数が望め、しかもすぐに古くなってしまわず、何度でも再販できるような作品を確保することが肝要であるとも考えた。

そうした性格の出版物として選ばれたのが、聖書、ギリシア・ラテンの古典作品、フランス語、英語、ラテン語の辞書そしてオペラ・テキストなどであった。そして印刷に当たって最も高価につく活字の組版を新たに作らなくてもよくするために、一つの組版母型から同じものをたくさん作れる、当時最新鋭のステロ版印刷法を取り入れたのであった。これによって製作コストを著しく引き下げることに成功したのであったが、それは同時に後に彼が『レクラム百科文庫』を創刊するにあたって、その技術的な前提条件になったものであった。

民衆向け雑誌の発行

1834年ドイツでは穀物の不作の結果として経済・社会状況が悪化し、広範な層の人々の不満が蔓延していたが、こうした展開の下で、「民主化運動」は市民運動の内部で、ますます大きな影響力を持つようになっていた。つまり政治的・社会的な諸要求において、下層階級の利害をもっと考慮すべし、との認識が広まってきたわけである。その代表者たちは、リベラル派の妥協的な態度や、彼らの「ブルジョア・リベラリズム」を批判し、それによって挫折しかかっていた反体制運動を前進させたのである。こうした新しい動きは、とりわけ小市民的な知識人の間で多くの支持者を見出した。そして自分たちの理想を広く宣伝するために、いろいろな雑誌が発行された。                               こうした流れの中で最も注目すべき民衆向けの雑誌として、1842年11月から「フィリップ・レクラム・ジュニア出版社」によって、『ライプツィッヒの機関車』が発行された。この週刊誌の編集者は、かつてのプロイセンの将校F・W・A・ヘルトであった。内容的には、全世界で起きた政治的、社会的、経済的、文化的な日々の出来事について伝えるもので、読書対象としては一般の小市民、手工業者、労働者、学生などに狙いを定めていた。そのため年間の購読料もわずか1ターラーと、廉価な価格に抑えられていた。こうした廉価で広く普及させるというやり方は、のちの「百科文庫」の行き方の先駆をなすものであった。そこには民衆向けのウイットがもりこまれ、時代遅れの国内ニュースは皮肉なタッチで伝えられていた。その一方外国ニュースに対しては、いちいちドイツと比較して、当てこすりが付け加えられていた。そのため一般民衆の間での人気はどんどん高まっていき、翌年6月には、当時としては大変な数字といえる二万部にも達したのであった。

この週刊誌の反体制的な論調には、当時ドイツやオーストリアをはじめとする中央ヨーロッパ地域を実質的に支配していたメッテルニヒも当初から注目し、恐怖感すら抱いていたようである。そのためその秘密情報網を通じて、この雑誌の人気ぶりが逐一彼のもとに報告されていた。その結果メッテルニヒの差し金によって、ライプツィッヒ市のあったザクセン王国の当局は、いろいろとその編集方針にくちばしをさしはさむようになった。そして1843年6月21日に、『ライプツィッヒの機関車』は、わずか25号で廃刊させられることになった。

その後レクラムは、1842年から庶民的な機知とジョークにあふれた民衆向けの雑誌『シャリバリ』を発行した。こちらの方の編集人はE・M・エッティンガーであった。この雑誌も週刊発行であったが、文字だけでなく、木版画が多数挿入されたり、美術関係の付録が付いたりしていた。つまり内容的には政治を扱ったものではなかったが、『機関車』で獲得した多くの読者をつなぎ留めておくための工夫もしていた。そしてパリで発行されていたものと同じ名前を持ち、共和制的・諷刺的傾向を帯びていたため、その鋭い調子を和らげるよう、当局から指図を受けた。これにはさすがのレクラムも抵抗できず、以後その調子を和らげ、遠回しに皮肉ったり、諷刺したりする程度で我慢せざるを得なかった。こうしてこの『シャリバリ』は、1849年まで存続した。

民主化運動と結びついた出版活動

メッテルニヒ統治下のオーストリア帝国では、王政の利害に反するようなあらゆる自由主義的、民主主義的、進歩的な運動は、様々な手段によって抑圧されていた。そのためそこでは自由な言論・出版活動など望めるものではなかった。こうして1830年、40年代を通じて、そうした傾向を持った作家やジャーナリストはたいてい、より抑圧の少ないライプツィッヒへ逃れてきて、そこから祖国の書籍市場へ向けて、自分たちの著作物を送り届けるようにしていた。ただライプツィッヒでも、出版の自由がかなり制限されていたことは、今まで述べてきたとおりである。メッテルニヒはこの都会を「ザクセンの小冊子工房」と称して、怖れ憎んでいたという。そのためメッテルニヒの長い手は、陰に陽にここにも迫っており、ザクセン王国政府も反ハプスブルク的著作物への検閲を厳しくせよとのウィーン政府からの要望に従っていたという。

こうした厳しい情勢にありながら、レクラムを初めライプツィッヒの何人かの出版人は、オーストリアからの亡命作家の原稿の出版を進んで引き受けていた。そうした出版人としては、オットー・ヴィーガント、ブロックハウス兄弟、ホフマン・ウント・カンペなどがいた。レクラムは1842年からこうした亡命作家の原稿の出版に乗り出していた。その際これら著作者たちの身の上を考えて、匿名ないし偽名で出版した。1844年にはこれらは15冊と最も多い出版点数となった。それらは広大なオーストリア帝国の各地の実情を調べた比較的穏やかな内容のものから、帝国の裏面を描いた批判的・反抗的なものまで、いろいろであった。

これに対してオーストリア当局は、これらの著作物が帝国内に流入しないように、行く手にあらゆる障害を設けた。しかし仲間の出版業者や、検閲者を含めた一連の人々の協力によって、オーストリア帝国への出版物の密輸を防ぐことは、当局もできなかったという。その結果メッテルニヒも最後には強硬手段に出て、1846年3月、オットー・ヴィーガントとフィリップ・レクラムにたいして、そうした小冊子の帝国内での販売禁止命令を出した。二人の出版者はこれに対して、新聞紙上に抗議文を掲載するなどなお抵抗したが、結局はこの命令を受け入れざるを得なかったのである。

これと並行してレクラムはドイツ・カトリック教会の改革運動に関連して、改革派の助任司祭ロンゲの著作のいくつかを印刷・出版して、その運動を援助したりもした。さらに1848年の三月革命へと向かって高揚しつつあったドイツの民主化運動の中にあって、フランス革命時代のイギリスの政論家トーマス・ペインの書いた『理性の時代』も出版した。これに対して当局は「宗教に対する公然たる侮辱のゆえに」、レクラムに四か月の禁固刑を命じた。彼はこれに抗告して、再び裁判が行われたが、第二審の判決が下される前に、三月革命が勃発し、この訴訟は取り下げになり、結局禁固刑の執行は回避できたのであった。

3 レクラム百科文庫への道

廉価娯楽文庫の発刊

この時期レクラムは、できるかぎり多数の読者を獲得すべく、別の試みも始めていた。それは「教養読者層のための廉価娯楽文庫」の発行であった。これは1844ねんから1847年までの間に全部で61巻に達したが、その目玉は一冊がわずか5グロッシェンという安さにあった。その中身は、当時の人気作家によって書かれたスリルやエロを狙った娯楽作品であったから、高い文学的価値には欠けていた。しかしその安い値段を通じて広範な層の人々を読書へと導いた点は評価されようが、それよりはむしろ出版業に専念してから7,8年という時期にあったレクラムとしては、これによって出版社の経営基盤の確立を図ろうとしたものと考えられる。

と同時にこれは二十年後にレクラム百科文庫の中で、より高いレベルで円熟完成することになった出版企画の最初の萌芽とみなすことができよう。1848、1849年の三月革命の騒乱後、1850年代に入ってからもレクラムの印刷所では、なお左派リベラル的・反体制的著作物も印刷されてはいたが、その出版活動の中心は、聖書、ギリシア・ローマの古典書、辞典、オペラ・テキストなど、高い発行部数が望め、しかも組版の変更なしに再版できるものに置かれるようになった。ちなみに辞典の中では、この頃発刊され1940年代になお45版を重ねていた『ミュールマンのラテン語辞典』のように息の長いものもあった。これらの出版物は出版社に安定した収入をもたらす安全弁ともいうべき存在で、しっかりとした経営基盤をもった大出版社を目指すには必要不可欠なものだったといえよう。

シェークスピアの廉価版全集

1858年のシェークスピア全集

ところで百科文庫の直接の先駆者として重要な役割を果たしたのが、シェークスピア全集の出版であった。1858年フィリップ・レクラム・ジュニア社から、「シェークスピア戯曲全集」全12巻が12枚の鋼版画付きで、<新ステロ版>と称して発行されたのである。当時ドイツではシェークスピアの作品は大変好まれ、そのドイツ語訳はいくつも出版されていた。このときレクラムが出版したのは、新たに翻訳されたものではなく、1836年にライプツィッヒのゲオルク・ヴィーガント社から全巻6ターラー強で出された全集であった。その12人の翻訳者の中には当時有数のシェークスピア通として知られていた人々もいた。つまり内容的にはすでに保証済みのものだったわけである。これはその12年後にベルリンのカール・クレーマー社によって買い取られ、こんどは<新カビネット文庫>という名称で、12枚の鋼版画付きの全12巻で、値段を2・5ターラーに下げて発行された。レクラムはこれがその10年後に絶版になったとき、買い取ったのである。そしてレクラムはこの全集を、驚くほど安い1・5ターラーという廉価で出版したわけである。これは自分の印刷所で、先に述べたステロ版を使用し、製作費をぐっと引き下げることによって可能になったのである。しかしこれは高い発行部数が得られて初めて、その成功が保証されるものであったのだ。

レクラムの商売人としての才能は、この時開花したと言えよう。レクラムの見込みは図にあたり、翌年には既に第5,6版を出すことができた。そしてその後ほとんど毎年新しい版を出していき、1867年には第14版にも達した。つまりこれは、それまで値段の高さゆえに手に入れることができなかった人々の手に、シェークスピアが届くようになったという事を意味するのである。廉価なシェークスピア全集に対する庶民の要望に気づき、その要望に沿った出版に踏み切ったという点にこそ、レクラムの偉大な出版人としての才能を認めることができるのである。その出版企画は、1867年以前の彼の職業生活において最大の成功をもたらしたのである。それまでドイツの中小出版社の一つに過ぎなかったフィリップ・レクラム・ジュニア出版社は、この時になって初めて大手出版社と競争できる立場に立ったのである。

シェークスピア作品の個別売り

以上の全集とは別に、1865年にレクラム社から25巻にのぼるシェークスピア全集が、こんどは個別売り、一冊2グロッシェンで発行された。これは同じ判型と同じ淡紅色の表紙を持った小冊子版であった。シェークスピア戯曲の個別売りは、すでに1850年にライマー社から一冊1ターラーで出ており、またブロックハウス社からの29巻本(1867~1870)が5グロッシェンで売られたのに比べれば、レクラム社のものは、かなり安かったと言わねばなるまい。ちなみに当時1ターラーは30グロッシェンであったから、レクラム社のものはライマー社のものの実に15分の1の安さだったのだ。これが可能であったのは、先の12巻のシェークスピア全集のステロ組版をそのまま使うことができたため、植字の費用が省けたことが大きい。さらに印刷代も安く、小冊子のための製本も簡単で安く、紙も廉価であった。こうした本づくりは、2年後の百科文庫にもほとんどそのまま受け継がれたのであった。

ただレクラム社がこれに踏み切った直接のきっかけとしては、次のような事情があったようだ。つまり1冊あたりの値段がレクラム社のものより安い1グロッシェンのシェークスピア全集がこの時出現したことに対する、いわば対抗措置だったのである。1865,66年、フリートラインが経営するシェークスピア出版社が、シェークスピアの全作品を<ドイツ国民版>と稱して、三百枚の木版画付きで、1冊1グロッシェン、四十週配本で出版した。

これは実際レクラム社にとって手ごわい相手で、いかにしてこの厄介な競争相手に打ち勝つべきか相談したとき、2年前に入社したばかりの息子のハンス・ハインリヒ・レクラムは、配本方式を提案したという。しかし父親はその意見を聞かずに、1冊2グロッシェンの個別売りを決断したのであった。全集を読者に全部買わせる方式では、1冊あたり1グロッシェンのフリートラインのものに負けてしまうことを、この時フィリップ・レクラムは確信したのであろう。結果的にはこれが大成功をおさめ、かれの出版業者としての優れた経営感覚が証明されたわけである。しかし1冊の価格をこれだけの安さに下げて個別売りする場合、それぞれがかなりの発行部数を確保できなければ、採算がとれないことは明らかである。それだけにこれに踏み切るには、極めて大きな決断力が必要だったと思われる。

こうして1858年の「シェークスピア戯曲全集」及び1865~67年のシェークスピア作品の個別売りの成功は、そのすぐ後の『レクラム百科文庫』の創刊へとつながる先駆的事業という意味で、大変重要なものであったのだ。なお一人息子のハンス・ハインリヒは、この後父親を助けて百科文庫の創刊に大いに貢献し、その後の文庫の発展にも文字通り心血を注いでいくのである。

百科文庫が創刊されることになる経緯については、次章で詳しく述べることにする。

文庫本の元祖、ドイツの『レクラム百科文庫』(1)

はじめに

レクラム百科文庫と私

私は1957、58年ごろ大学の教養課程のドイツ語の授業で、教師がこの文庫に収められていた18世紀末のドイツの詩人・作家ヘルダーリンの『ヒュペーリオン~ギリシアの隠者~』を用いたのが、この文庫との最初の出会いであった。今でもこの文庫本は持っているが、装飾のない薄茶色の表紙の小さな本のドイツ語の行間には鉛筆で日本語の訳語が書き込んである。そしてこの高級な文学作品は、当時ドイツ語を習いたての学生だった私にとっては、ほとんど理解できない代物であったことを覚えている。

レクラム百科文庫の『ヒュペーリオン~ギリシアの隠者』
“Hyperion oder der Eremit in Griechenland”

 (Friedrich Hoelderlin)   Reclam
 (Reclams Universal-Bibliothek Nr.559/60)
これは第二次大戦後に作られた
ほとんど装飾のない簡素な装丁の表紙。

そして、ドイツの古典文学数冊と日本の『更科日記』、『新古今和歌集』、『今昔物語』のドイツ語版をこの文庫で買い揃えたり、東ベルリンを訪れた時、東独版のレクラム文庫を数冊買ったりした。

その後レクラム文庫のことは忘れていたが、ふとした機会に、旧知の日本学研究者レギーネ・マティアス女史から「レクラム文庫と岩波文庫」に関する研究を耳にして以来、自分の研究テーマとしてやっていきたいと思うようになった。そして日本の洋書取次店から、あるいはドイツのレクラム出版社から、レクラム関連の文献・資料を取り寄せ、調べ始めた。そのうえでまず、戦前それも特に19世紀のレクラム出版社ないしレクラム百科文庫とそれを取り巻く環境を中心に、数冊論文を執筆した。その後この文庫の全体像とその歴史を一冊の本にまとめようと決心した。しかし手元にあった文献・資料だけではまだ不十分であったので、1994年夏にドイツ西南部のシュトゥットガルト近郊にあるレクラム出版社を訪れた。そして同社の文書庫に収蔵されている創刊時からその時点までの全ての文庫本及び各種関連資料を閲覧したり、そのコピーを取らせていただいたりした。

こうして今から30年前の1995年12月に、『レクラム百科文庫。ドイツ近代文化史の一側面』を、朝文社から刊行することができた。今回、本ブログに、「文庫本の元祖、ドイツの『レクラム百科文庫』」を掲載するにあたって、30年前の私の著書の内容をほぼそのまま取り入れることにした。

『レクラム百科文庫』ドイツ近代文化史の一側面 の表紙。
中央にあるのは、1867年に創刊された時の最初の40
ナンバーの第1号ゲーテの「ファウスト」。
表紙の装丁は独特の装飾的なもの。

次にこの著書の内容の概要を紹介することにしよう。

序章 文庫本の元祖としてのレクラム文庫

第一章 「レクラム百科文庫」と日本
1 戦前のエリートに与えた大きな影響
2 レクラム文庫を模範にして生まれた岩波文庫

第二章 創業者 アントン・フィリップ・レクラム
1 その先祖
2 アントン・フィリップ・レクラムの初期出版活動
3 レクラム百科文庫への道

第三章 レクラム百科文庫の創刊
1 古典解禁年1867年
2 ドイツにあふれる古典廉価版
3 レクラム百科文庫成功の諸要因
4 創業者と二代目の横顔

第四章 その後の発展
1 創刊当時の時代風景
2 初期の発展
3 その後の歩みとジャンルの拡大
4 一大出版王国への歩み
5 第五千ナンバー(1908年)以後
6 第一次大戦後の路線変更
7 第三帝国時代の百科文庫

第五章 第二次世界大戦後の歩み
1 過渡期(1945~1948年)
(1)ソヴィエト軍政下のレクラム社
(2)シュトゥットガルトに新レクラム社設立(1947年)
2 シュトゥットガルトでの新路線の開始(1949~1966年)
(1)四代目当主ハインリヒ・レクラムによる指導
(2)レクラム社創立百二十五周年記念(1953年)以降
(3)シュトゥットガルトの新社屋完成(1961年)以降
3 百科文庫創刊百周年(1967年)以降
(1)創刊百周年記念祭(1967年)
(2)教育目的を持った文学研究シリーズ刊行開始
(3)戦後の百科文庫の読者層
(4)東独のレクラム百科文庫
(5)1978年から1992年まで

第六章 百科文庫の構成ーージャンル別の特徴ーー
1 ドイツ文学
2 外国文学
3 人気流行作品
4 戯曲作品
5 もろもろの学問
(1)哲学
(2)歴史学
(3)文学研究
(4)教育学
(5)社会科学
(6)地誌、美術
(7)自然科学
6 音楽関係
7 実用書

第七章 百科文庫の周辺
1 宣伝広告活動
2 大量販売のための経営戦略
(1)コルポルタージュ販売
(2)雑誌『ウニヴェルズム』の発行
(3)文庫自動販売機の設置
3 百科文庫の読者層
(1)レクラムと学校
(2)レクラムの読者としての教養市民予備軍
(3)レクラムと労働者
4 数字から見た百科文庫
注(各章ごと)

参考文献

あとがき

序章 文庫本の元祖としての
『レクラム百科文庫』

日本における文庫本の現状

小型で携帯しやすく、廉価な文庫本は、紙の書物としては便利な代物として、今日なお欠かすことのできないものと言えよう。立派な装丁のハード・カヴァーの本が、一定の歳月を経て文庫化される例も少なくない。
「文庫」とは何であるか定義するのは容易ではないかもしれないが、平凡社「世界大百科事典」(1981年発行)の文庫の項目には次のように書かれている。
「装丁の大きさなどを一定にして、継続的に出版される一連の図書群。
(1) 特定の主題をもって、しかもある限られた冊数で完結するもので、例えば母親文庫、料理文庫、花嫁文庫のようなもの。これは全集とか叢書とか言われているものとまったく同じである。
(2)世界のあらゆる方面の名著を広く集めたもので、刊行の終期が予定されていない継続出版物である。1927年から刊行されている岩波文庫、1928年からの新潮文庫、1929年の改造文庫、第二次世界大戦後では角川文庫その他がある。イギリスのエブリマンズ・ライブラリーやドイツのレクラム文庫などを範にとったもので、これらを一揃い備えることによって小図書館の効果を得られるというのが、この名称の由来するところと思われる。今日一般に文庫といえば(2)を意味し、形態も一般に小型である。(岡田 温)」

この定義によって「文庫」についてのだいたいの概念は得られると思われるが、ただ我が国の書籍市場に出回っている百を超す文庫のシリーズを見ると、(2)で言われるような、様々なジャンルを収めた、いわば正統的な文庫はむしろ少なく、大衆小説や推理小説を集めた文庫、漫画文庫、あるいは教養文庫、学術文庫など、特定のジャンルの文庫の方が多いように見受けられる。

それはともかく様々なジャンルを包括した、わが国で最初の本格的な文庫といえば、前述の岩波文庫であることは間違いない。そしてその岩波文庫が模範としたのが、これから取り上げていくドイツのレクラム百科文庫(1867年創刊)だったわけである。その意味でレクラム百科文庫は我が国の文庫本の元祖でもあったといえよう。

その他のヨーロッパの諸文庫

1927年(昭和2年)創刊の岩波文庫以前にもわが国には、すでに明治後期から文庫は存在していた。日本の文庫の起源については研究者によっていろいろな説があるが、その一人矢口進也によれば、第1号は明治36年(1903年)の「袖珍(しゅうちん)名著文庫」(冨山房発行)だといわれる。そしてこの文庫が模範にしたのが、イギリスのカッセル文庫だという。「・・・草創期の文庫が海外のそれに範を仰いだことは常識で、<袖珍名著文庫>も、校訂者の一人芳賀矢一が持ち帰ったレクラム、カッセル両文庫に倣ったものだ、と言われているが、私はレクラムよりカッセルの影響の方が大きかったのではないかと想像している。というのは、カッセル版はクロス装と紙装の両立てで出されており、冨山房の刊行方式と同じだからである。」

この「カッセル文庫」はイギリスのカッセル社から、1886年に創刊された。小説、戯曲、伝記、歴史、宗教、科学、芸術と収録範囲もレクラムに匹敵する豊富なものであったが、1890年には刊行を中止したので、5年間ばかりの寿命だった。

これに比べると同じイギリスでも1906年創刊の「エブリマンズ・ライブラリー」の方は長い間存続し、英語という事もあってか、わが国にも一定の影響を及ぼしたようである。随筆家で文化史家の春山行夫は1939年(昭和14年)に雑誌『学
鐙(がくとう)』に寄せたエッセイ「イヴリマン文庫その他」の中で、この文庫に触れている。彼はエッセイやクラシックの文芸ジャンルのものを、30冊ぐらい所持していたという。

この文庫については、平凡社の「世界大百科事典」(1981年発行)にも取り上げられているので、以下その記述を見ていくことにする。
「エブリマンズ・ライブラリー Everyman’s  Library
ドイツのレクラム文庫、フランスのかつての国民文庫などと並んで、イギリスを代表する有名な文庫。1906年にロンドンの出版業者J・M・デントが創刊し、<誰もの文庫>を意味するその名称は、編集顧問のアーネスト・リーが16世紀初期の教訓劇<エブリマン>の中に、<われはなんじとともに行き、なんじの道しるべとならん>とあるのから思いついた。伝記、歴史、旅行と地誌、科学、随筆、雄弁、ギリシアとラテンの古典、伝奇、詩と戯曲、小説、神学、哲学などの部門に分かれ、世界中の有名な書物はほとんど収められているばかりでなく、この文庫でないと手に入らぬ古典も少なくない。小説が最も豊富で、ディケンズやスコットは全作品が入っている。以上の部門のほかに辞典類を中心とした参考書群、青少年年向け古典シリーズも別にある。知識を正確に民主化するというこの企画の主目的は、校訂者、印刷者、製紙業者などの情熱的な協力を得て、十分に達成され、現在までの発行部数は1千に達している。・・・(寿岳文章)」

ペンギンブックスの登場

いっぽう現代の世界各国における小型で廉価なポケットブックの氾濫の直接のきっかけを作ったのは、1935年にイギリスで創刊されたペンギンブックスであったという。ドイツの評論家エンツェンスベルガーはその『消費財としての教養ーポケットブック生産の分析』の中で、次のように述べている。
「ポケットブックが勝利の歩みを始めたのは、1935年のことである。その年イギリスで、ペンギンブックスの最初の一冊が発行された。・・・その後25年間に1億5千万部以上を売りさばき、年間発行部数が千五百万部を超えるという、イギリスのこの先駆的な会社の成功は、たちまちイギリス本国をはじめ、アメリカ、ヨーロッパ、南アメリカの書籍市場で多くのイミテーションを作り出した。アメリカでは、それはわずか1年間(1959年)に3億9千万部にのぼる発行部数となった。そしてドイツでポケットブックが初めて市場に現れたのは、1950年、エルンスト・ローヴォルトによって創始されたものである」

ペンギンブックスの日本における影響は、まず1938年創刊の「岩波新書」となって現れた。それについて話をする前に、そもそもペンギンブックス(Penguin  Books)がどのようなものであったのか、平凡社の「世界大百科事典」(1981年)で見てみることにしたい。
「ヴィクトリア朝の有名な出版者ジョン・レーンの甥にあたるアラン・レーンが、二人の兄弟と協同し、1935年に創刊した廉価版叢書の名。当初の目的は、定評のある小説を一冊6ペンスという安い値段で大量に印刷出版することであったが、企画は見事に成功して、2年足らずのうちに百種を刊行した。37年、教養と科学知識を高め、広めるのを目的とする<ペリカン・ブックス>Pelican Booksも、同じ方針のもとに計画され、これまた大成功を収めた。その結果<ペーパー・バック>(紙装本)という新語まで作られ、同種の叢書が欧米に続出するきっかけとなり、日本ではまず<岩波新書>が範をこれに求めた。ことにペリカンの方は、この叢書のための書き下ろしが多く、それも一つの呼び物となっている。・・・(寿岳文章)」

これで分かるように、岩波新書はすでに存在していた岩波文庫との性格分けを明確にするために、このペリカン・ブックスの書き下ろし方式を採用したものと思われる。そして以後わが国では、新書はこうした書き下ろしものが主流になってきたようである。岩波新書創刊の経緯については、現在発行されている新書の巻末に載せられている「岩波新書創刊五十年、新版の発足に際して(1988年1月)」の中で、次のように書かれている。
「岩波新書は、1938年11月に創刊された。その前年、日本軍部は日中戦争の全面化を強行し、国際社会の指弾を招いた。しかしアジアに覇を求めた日本は、言論思想の統制を厳しくし、世界大戦への道を歩み始めていた。出版を通じて学術と社会に貢献・尽力することを終始希いつづけた岩波書店創業者は、この時流に抗して、岩波新書を創刊した。・・・戦時下に一時休刊のやむなきにいたった岩波新書も、1949年、装を赤版から青版に転じて、刊行を開始した。・・・」
このようにして日本では、従来からあった文庫と新たに登場した新書という別個の系列のポケットブックが共存する状況が生まれたわけである。

西独のポケット・ブックとレクラム百科文庫

一方ドイツにおいては、第二次大戦後国が分断されたが、西独において1950年、アングロサクソン方式を真似た、ローヴォルト社の「ロ・ロ・ロ・ポケットブック」を皮切りに、数多くの出版社からポケット・ブックが次々に出されていった。そしてやがてこの新型のポケット・ブックが西ドイツにおける小型廉価版の主流を占めるようになっていったのだが、それらは戦後東独領になったライプツィッヒから西独のシュトゥットガルトに移って再建されたレクラム文庫とは基本的な類似点を持ちながらも、様々な面で異なる存在であった。

創刊以来125年を超すレクラム百科文庫の歴史を語るのが、本ブログの目的であるが、その冒頭に当たって戦後ドイツのポケット・ブックとの類似点と相違点を見ることによって、このドイツの古典的な文庫の特徴をはっきりつかんでおきたい。ここでは主として先にも取り上げたエンツェンスベルガーの著書『消費財としての教養ーポケットブック生産の分析』を通じて、その点を明確にすることにしよう。

彼はまず「購買者」という項目で、ポケット・ブックの外形的な特徴に関連して次のように述べている。
「客がソクラテス以前の哲学書に決めようと、あるいは料理の本に決めようと、値段だけはハッキリしている。・・・統一価格ーそれが生産者ばかりでなく購買者の計算の基礎でもある。次の保証としては、商標があげられる。もともと見返しに置かれていたつつましやかな出版社のマークは、よく眼につく場所、つまり表紙に刷り込まれ、簡潔だがハデな商標となっている。・・・本の印刷が発明されてこのかた、文学作品は確かに商品ではあった。しかし、ここではじめて―銘柄付き商品としてーその商品的性格が完全に実現するのだ。装丁は規格統一された包装となる。そして本の中身について購買者と了解しあうという重大な役割がそれにふりあてられる。・・・ポケット・ブックの外観そのものがそれ自身の広告となり、宣伝文がそこに貼りつけられる。」

ここで指摘されているポケット・ブックの様々な特徴は、レクラム百科文庫の創業者が発刊するにあたって苦心した工夫の数々であった。この点については「第3章3 レクラム百科文庫成功の諸要因」の箇所で詳述していくが、これらの諸特徴は、ポケット・ブックの発刊者がレクラムなど、それ以前の小型廉価版から受け継いだものといえよう。

次に「装置」という項目で、ポケット・ブックの大量生産システムについて述べられている。
「たんなる数字を軽蔑するものは、純粋に量的な生産データが生産手段に対して逆に作用し、さまざまな状況のもとで、生産手段を質的に変えることもありうる、という事実から眼をそらしたがる。が、この種の構造的変化は、第二次世界大戦以来、ドイツ出版業界のいたるところで確認しうることなのだ。・・・本の出版は、企業としては、ながいあいだ、職人的な企業であった。その生産は、ほとんど手工業的形態に固定されていたといえるかも知れぬ。・・・これに反して、典型的な現代の大出版社は、まったく合理的な経営による産業的特徴をそなえた企業である。その目標は、企業の生産力をフルに消化するきわめて膨大な、コンスタントに持続する部数の生産である。・・・したがって、出版カタログには、かなり長期にわたって店ざらしにされなければならないような売れ残りのための余地などない。・・・力点がおかれるのは、どんどん変わっていく新刊書だけだ。企画の中枢は、財政と契約の専門家にまかされる。・・・大きなポケット・ブック出版社は、自社の印刷所をもつか、あるいはその種のものを支配していない限り、大きな印刷・製本工場と長期契約を結んでいる」

レクラム出版社は最初から自分の印刷所をもち、合理的な大量生産体制を推進してきた点では、現代の大出版社の先駆的存在であったといえる。しかしその出版物である文庫の企画や出版に関しては、かなりの程度高まいな理念を保持し、その文庫はすべて自己の巨大な倉庫に保管して、いつでも読者の手元に届くようにしていた点では、大いに異なっていたといえよう。

この後者の点については、エンツェンスベルガーは「プログラム」という項目で、次のように明らかにしている。
「フィリップ・レクラムが、ライプツィッヒで1867年に、はじめて『ユニバーサル文庫』の小冊子を発刊したとき、トップにおかれていたのは、ゲーテの『ファウスト』二巻であった。<その出発にあたって名付け親となったのは、人文主義の理念と古典理想主義であった。・・・> 『ユニバーサル文庫』九十周年記念のためにレクラムが発行した出版小史には、こう述べられているのだ。この企業は、現在にいたるまで、この原則に忠実である。・・・ポケット・ブック出版社のプログラムは、もはや、ある<一貫性>・・・といったゼイタクを楽しんでいるわけにはいかないのだ。・・・自明のことだが、この『ユニバーサル文庫』のなかに、今日のポケット・ブックの先駆を認めなければなるまい。レクラムの出版史も、この『文庫』を<世界のもっとも古いポケット・ブック・シリーズ>と呼び、その先駆的役割をハッキリと自認している。むろん、その相違は明白だ。レクラムの試みは、歴史的なサンプルとしてぼくらの分析に役立つ。ローヴォルトの『ロータチオン』の企画が、ぼくらの時代の大衆文化を体現しているのと同じ正確さで、それは、19世紀の教養理念を具体化している。レクラムは普遍的教養ーかれが重視したのはそれだったーを、叢書というイメージでとらえていた。教養ある人間として読んでおくべきものの規準を、いっきょに認めさせたかったのだ」

ここで私としてはレクラム文庫の表記について一言言っておきたい。エンツェンスベルガーの本の訳者は「ユニバーサル文庫」と訳しているのだが、これまで日本では一般に「レクラム文庫」と呼ばれてきた。そのほかに「レクラム叢書」、「レクラム版」、「レクラム世界文庫」、「レクラム萬有文庫」、「レクラム・ユニバーサル文庫」などと、様々な呼び方がなされている。その元のドイツ語は<Reclams Universal-
Bibliothek>であるが、ドイツ語の Universal という言葉には、独和辞典では「全般的な、萬物(有)の、普遍的な、全世界の」といった訳語が付けられている。そして Universal-Lexikon という言葉には「百科事典」という訳語が当てられている。しかもこの Universal という言葉は、百科事典が編纂され始めた18世紀後半の啓蒙主義時代以来、ドイツで好まれてきた概念だともいわれている。こうした理由から私は「レクラム百科文庫」と表記するわけである。百科万般にわたる広範なジャンルを包括した、この文庫の名称として最もふさわしいと信じるからである。

第1章 『レクラム百科文庫』と
日本

1 戦前のエリートに与えた大きな影響

旧制高校生とドイツ語

レクラム文庫という名前は、戦前の旧制高校や旧制大学で学んだものにとっては、おそらくその専門の如何を問わず、懐かしい響きを持っているに違いない。実態として帝国大学への予備教育機関であったといわれる旧制高校では、語学教育に著しく重点が置かれていたが、その際ドイツ語の授業は英語と並んで大きな地位を占めていたのである。それぞれ第一語学ないし第二語学として毎週の授業時間数はとても多く、平均すると全授業数の四割前後を占めていたという。旧制高校生はまさに英語漬け、ドイツ語漬けになっていたようだ。

1894(明治27)年の<高等学校令>によって確立され、戦後の学制改革まで続いたこの旧制高校は、その間いろいろな変遷を経ているが、全体から見ればごく少数のエリートが通った教育機関であった。明治以後の日本の教育は、先進国に追いつき、追い越せという意味合いでの近代化推進の手段として、おおむね実利主義的な色彩が濃かったといえるが、三年間の旧制高校だけはその例外だったようだ。いわばエリートに与えられた特権として、そしてまた将来社会の各界の指導者に成るものにとって必要なこととして、この期間には実利から離れた一般教養や語学に重点が置かれていたのである。人生とは何ぞや、青春とは、宇宙とは、世界とは、人はいずこから来ていずこに行くのか、といった哲学的な問題に取り組んで、あれこれ悩み、友達や先輩と議論できたのも、このモラトリアム期間における特権であったようだ。

そのため旧制高校での語学の授業も、実際的なものではなくて、一般に人文主義的な分野つまり古典文学や哲学・思想などに関して英語やドイツ語の原書を講読するというものであった。そしてドイツ語の場合、原書つまり教材としてレクラム百科文庫が大きな役割を果たしていたわけである。さらにこのレクラム百科文庫は、旧制高校生が大学に入ってドイツ文学・語学のみならず、医学、法律学、自然科学などの専門分野の勉学についてからも、また卒業して社会人になってからも、読まれていたようだ。この人たちとドイツ語との結びつきは、今日では考えられないほど緊密だったのだ。

ここで旧制高校生の在籍者数を見てみると、1900年(明治33年)には5,684人、1920年(大正9年)に8,839人、1930年(昭和5年)に20,551人、そして1940年(昭和15年)には20,283人であった。昭和前期(戦前)の旧制高校生はおよそ2万人に過ぎなかったのだ。しかもこれらすべてが第一語学としてドイツ語を選んでいたわけではなかったので、レクラム百科文庫などの原書を読みこなせた者の数はさらに少なかったはずである。
日本学専攻でレクラム百科文庫と日本との関係について研究したドイツ人のレギーネ・マティアス女史はこの点について、次のように述べている。「ある研究者によれば、1905年ごろドイツ語ができた日本人の数は三千人を超えることはなかったと推測されるという。これは五千六百万人(1920年)の総人口と比べれば、極めて少ない数であるが、これら高校生のほとんど全てが教養エリートとしてその職業生活で社会の重要な地位についていたことを忘れてはならない。それゆえにこの数字には乗数をかけてみる必要があり、実際にはこの数字から推測されるよりもはるかに大きな影響力を持つことができたのだ」

実際、大衆文化が今日ほど優勢でなかった明治・大正・昭和前期には、少数エリートが持っていた文化的な影響力は極めて大きく、それゆえにレクラム百科文庫などの洋書を通じて入ってきたドイツ文化の優勢ぶりは、今日では想像できないほどのものがあったと思われる。

レクラム文庫の日本への輸入

レクラム百科文庫は、1867年に創刊されたあと、諸外国への輸出にも力を注いでいたが、明治時代の中頃1890年代には日本にも入ってきたようである。当時洋書の輸入販売を一手に引き受けていたのは、1869(明治2)年創立の丸善であった。レクラム百科文庫の戦前からの研究者であるアンネマリー・マイナー女史はこの叢書の世界への輸出について次のように述べている。
「百科文庫の外国への進出はとても早い時期に始まった。すでに1870年には大西洋のルートを発見していた。やがて外国のほとんどすべての首都には、商品引き渡し所ができていた。つまりパリ、フィレンツェ、モスクワ、ペータースブルク、ストックホルム、プラハ、ブカレスト、ニューヨークそして東京に。日本への輸出は1914年以前には第一位であった。戦争が始まったとき、それぞれ五千冊を入れた木箱六個が輸送の途中にあったが、これらは時に危険な目にあいながら、目的地に到着した。」

ここで言う戦争勃発というのは、第一次世界大戦のことで、日本へ向けて三万冊ものレクラム百科文庫が送られていたのだ。しかも日本への輸出が欧米諸国にもまして第一位だったというのだ。ここでいう日本での商品引き渡し所は輸入代理店としての丸善であったが、いつごろから丸善が「百科文庫」の輸入を始めたのかという点については、1923年の関東大震災で丸善の建物が燃えてしまい、その時資料も焼失してしまったので、明らかではない。ただ先ほどのマイナー女史の『レクラム。百科文庫の歴史』(1942年)にはレクラムと日本との関係については別に記したところがあり、次に引用するその記述から推測すると、この叢書は1890年代にはすでに日本でよく知られていた模様である。

「百科文庫の創始者が1896年に死んだとき、ニューヨークのある新聞は、レクラムのような人物の成功ほどドイツ帝国の増大する力をよく説明する者はないであろう、と書いた。ほぼ同時期のドイツ人日本旅行者の報告は、このことをさらに良く物語っている。彼によれば日本ではただ二人のドイツ人の名前しか知られていないが、それはつまりビスマルクとレクラムだという事だ」

これらの引用から、いかに明治の日本が日の出の勢いのドイツ帝国に魅惑され、その優れた文化をレクラム文庫などの洋書を通じて吸収しようとしていたか、という様子がよくご理解いただけよう。ただ丸善の資料消失によってレクラム文庫輸入の実態を総体として裏付けることはできない状態にある。しかし先のレギーネ・マティアス女史によれば、その後の発展ぶりへの最小限の手掛かりは「大震災の数年前に顧客に配られ、火災のあと再びこの書店の文書庫に返却された丸善発行の洋書目録およびカタログ」によってつかめるという。それによれば「1905年5月のカタログには引き渡し可能な百科文庫83点が掲載されているが、そこにはゲーテ、シラー、レッシング、ルソー、ドイツ法律集などのほかに、とりわけロシア文学(トルストイ、ツルゲーネフ、ゴーリキ)やイプセンの作品が見られたという。そして「わずか4年後の1909年には、別のカタログが289点を載せていたが、そこにはたくさんの法律集とドイツ文学、外国文学が含まれていた。このリストには日本に関連したものが2点入っていた。それは日本の短編小説と和歌をドイツ語に翻訳したもの及び1889年の日本の憲法のドイツ語版」であった。

戦前のエリートが語るレクラム百科文庫

ここでは先の日本研究者マティアス女史の論文『日本におけるレクラム。百科文庫と岩波文庫』の記述をもとにして、戦前に青春時代を送ったエリートが語っているレクラム百科文庫への熱き思い出を紹介しよう。同女史はその際、レクラム文庫と深い関係にあった岩波書店発行の『図書』及び『文庫』ならびに丸善発行の『学鐙』に掲載されたものを、丹念に調べて引用しているわけである。ただこの論文はドイツ語で書かれていて、当然その引用もドイツ語に翻訳されたものなので、私としてはその日本語の原典に当たって、ここに引用することにした。

森鴎外とレクラム

さて、おそらく日本で最も早く、もっとも有名なレクラムの読者は森鴎外であったという。鴎外は大正3(1914)年に小文「小さい本」の中で、レクラム文庫に関連して次のように書いている。「・・・かう云う、おもちやの小さい本とは違って、廉く賣つて廣く行はれさせようと云う目的でつくる稍小さい本がある。Leipzigの書肆Reclamから出る所謂Reclam本などがその尤なるものである。Reclam本の校正は決して悪くない」
鴎外はまた自らドイツ文学の翻訳にあたって、レクラム版もどしどし使用していたようである。比較文学者の島田謹二はその著書「近代比較文学」の中で、森鷗外の名訳 『即興詩人』の底本が、レクラム百科文庫のドイツ語版であることを明らかにしている。
さらに鴎外は友人、知人との交際の際にも、レクラムを宣伝していたという。このことは例えば経済学者で元慶應義塾長の小泉信三(1888~1966)が書いたエッセイ『岩波文庫とレクラム』のなかでも触れられている。「・・・私は回教の經典(コラン)の如きものもレクラムで見たし、幾多のドイツの法典もこの文庫本で間に合わせた。たしか各種の遊戯法もそれには収められてゐたと思ふ。料理法の本はたしかにあった。森鴎外が客をするとき、それを讀んで家人に授け、之をレクラム料理と稱して客をもてなしたといふ話を(小山内薫から)きいたことがある。・・
・私はドイツ文學のみならず、ロシア、スカンジナビア、フランス文學等を、多くレクラム文庫本によって讀んだ」

明治の旧制高校生とレクラム

レクラム文庫は1890年代(明治23~33年)には日本でもよく知られていた、と先に書いたが、このことを立証するのが国語学者の新村出(1876~1967)が書いた「文庫懐旧談」である。「私は明治の二十七、八、九年ころ、一高の上級から東大へ進んだころ、レクラム本でレッシングのラオコーン、ゲーテのウェルテルやヘルマン・ドロテーア、シラーのメッシナの花嫁などを習ったことがあったこと、明治四十年ころ、ベルリンやウィーンやライプチッヒに留學の時分には、ワグネルの歌劇やらイプセンの近代劇やらを觀賞するについては、むろんレクラム本のお世話になったのだが、それは後年の岩波文庫の場合に近かった。・・・レクラムの出版印刷工場には、1932年、ゲーテ百年祭のあと、三たび獨国に遊んだとき、初めてライプチッヒの學友に案内されて見學したことがあった。・・・それより二十餘年前には數ケ月間一ゼメステル中の留學期には、この圖書文化都市に在りながら、レクラム本の印行などに關してはまだ無関心であった。いかにもざんねんとも、ざんちとも自嘲されるばかりである。」

この新村の青春時代から10年ほど経った日露戦争(1904~05)のころになると「一高や東大でドイツ語を習いたての若い学生が、安価で名著がたやすく買えるのを便宜とし、丸善でしきりにレクラム本をあさりだした」という。そうした一人に作家の武者小路実篤(1885~1976)がいる。この白樺派の作家は「岩波文庫の使命」という小文で次のように書いている。             「僕達の若い頃には岩波文庫のような本はなかった。又いい翻譯物も少なかった。勢い西洋の讀みたいものを讀むためには、外國語に頼るより仕方なかった。僕は父が若い時ドイツに留學を命じられて六七年ドイツに留學した事があったので、その關係から兄も僕もドイツ語を第一外國語として選んだわけだ。従って僕は讀みたい西洋のものは出来ないドイツ語をたよるより仕方がなかった。ドイツ語で西洋のものを讀むとなると、小泉信三氏もかいていたが、レクラムにたよるのが一番近道で便利であった。一つの星が十銭だった。電車にのらずに歩いて、その代わりレクラムを買うと言うのが、その時分の僕の方針だった。レクラムでトルストイのものが出ているのは殆ど讀んだ」

ほぼ同じ世代に属する人物にドイツ文学者の吹田順助(1883~1963)がいる。ドイツではレクラム文庫創刊七十五周年記念祭は第二次大戦中のため、戦後の1953年に、レクラム出版社創立百二十五年と合わせて行われた。この時吹田は丸善の『学鐙』に「レクラム文庫の思い出」というエッセイを載せているので、その一部を次に引用する。
「レクラム文庫はいまでは東京その他の大都市における洋書取次店の店頭には陳列されているであろうから、多くの学生諸君は恐らくその存在を知っているであろうが、なかにはレクラムという名を聞いてピンと来ない人も少なくないのではなかろうか。ところが私たちの學生時代からこの大戦の勃発した頃にかけては、いやしくもドイツ語を習っている學生なら、レクラムの名稱を知らなかったものは恐らくなかったろうし、また彼等は同文庫からいろいろの恩澤に浴したものであるー教科書としてなり、自習書としてなり。・・・私たちが一高の寮(本郷にあった)にいたころ、寮友は夕食後よく、三々五々、例の弊衣破帽というかっこうで散歩に出たものだが、そういう時には例えば、鴎外の『雁』の背景になっている不忍の池畔などをぶらついた帰りには、よく湯島切通しの坂上にあった南江堂に立ち寄ったものだ。
それで二三段の本棚にぎっしりと並べられたレクラム文庫を漁ってはグリムの童話集とか、『ウェルテル』とか『ウィリアム・テル』とか、ハイネの『歌の本』とか、トルストイの『民譚集』とか、一二冊ずつ買ってくるのが、一種の習わしともなり、たのしみともなった。何しろドイツ語を習いたての時分で、そのころは翻譯書も今のようには出ていなかったので、辭書と首っぴきで原書を読んでゆくより仕方がなかったが、そういうときの気持ちというものは、行く先のしれない森の下道でも辿ってゆくのに比べられようか。もちろん分からない處も出てくるが、らくに讀めて面白そうな處やすばらしい表現にぶつかると、赤鉛筆か何かでさかんにアンダーラインしたものであるー原書を讀んでいるという初學者らしいプライドも手傳っていたのであろう」

このドイツ文学者より少しあとの世代に属する法学者で元最高裁判所長官の田中耕太郎(1890~1974)は、太平洋戦争中の昭和十八年に『学鐙』に「洋書のにほひ」と題するエッセイを寄稿しているが、その中でレクラムに触れて次のように述べている。
「一高に入って初めて洋書を買った。それはレクラムであった。それでもあこがれていた洋書の部類に屬するのである。大枚十銭でゲーテやシルレルが手に入ることは、まったく不思議なことであった。寮費を加算して十四・五圓の學資では、勢ひレクラムに集中する外なかった。細字で行間をつめて組んだレクラムからは精神文明のかほりが横溢してゐるように思へた。樺色の簡素なしかし良質の表紙は、獨逸文明の堅実さを象徴しているやうであった」

またレクラムに関するエッセイの類いは見つからないが、マティアス女史によればレクラムの愛読者であったのが、民俗学者の柳田国男(1875~1962)であった。彼は「自分が所蔵していた図書のなかに、四十冊ほどのレクラム文庫を残している」そうであるが、「それらのうちの数冊は、書店のスタンプからわかるように、ベルリンやウィーンで買ったものか、もしくはたぶん第三者からプレゼントとして柳田の手元に入ったものであった」という。ちなみに柳田は若い頃から鴎外と知り合い、竜土会、イプセン会のメンバーとして海外の新文学を紹介したりしていたというし、1922年には国際連盟委任統治委員会委員としてスイスに駐在していたこともある。

同じく鴎外と親しかった医者で詩人・劇作家の木下杢太郎(1885~1945)
も「熱心なレクラムの読者で、遺された文庫には八十一冊のレクラム本があるが、そのテーマは広範にわたっている。主なものはロシア文学(トルストイ、ツルゲーネフ)およびイプセンの作品である。そのほこキケロ、タキトゥスからセルバンテスを経てゲーテ、ハウフ、ヘッベル、シェイクスピア、オスカー・ワイルドに及んでいる」という。そして「木下には一時そのレクラム本に名前と購入の日付を記す習慣があった。そのため彼が多くを1904年から1912年にかけて、つまり彼の旧制高校と大学の時期に入手したことを、我々は知るのである」という。ちなみに木下の詩にはドイツ近代叙情詩の影響も見られるという。

大正末期の旧制高校生とレクラム

以上紹介した人々より少し若く、大正末期に旧制高校生だったのがドイツ文学者の高橋健二(1902~1998)であった。彼は1969年、『学鐙』の丸善創業百年記念号に「レクラム本」という小文を寄せているので、その中から興味深い箇所を抜粋して引用する。
「・・・一高ではドイツ語の組で、一週間に十三時間もドイツ語をおそわったので、しばらくすると、いくらか読めるようになった。・・・そのころは、翻刻の教科書がドイツ語では特に少なかったので、教科書にも原書がよく用いられた。漱石の『三四郎』の偉大なる暗やみこと岩元禎先生は、三年の時、シラーの『ヴィルヘルム・テル』と『ヴァレンシュタイン』をレクラムで教えられた。・・・岩本先生がひとりで、我流の発音で読んで、古風なことばで訳していくので、どんどんはかどって、『テル』五章をあげてしまい、『ヴァレンシュタイン』に進んだが、この方はいくらもやらないで、卒業となった。・・・大学に入ってからも、さかんにレクラム本を買った。この十二月四日に文学座がシラーの『メアリー・スチュアート』を上演するので、シラーのレクラム版を出してみた。全集なんかより扱いやすいからである。大学時代に読んだと見えて、訳語がへたな字でたくさん書きこんである。かめの子文字の古い版で、背中が破れているが、読むには便利である。四日に芝居を見に行く時に、たずさえて行くことにした」
後に本論で詳しく述べるが、レクラム文庫には戯曲作品が大変たくさん収録されていて、ドイツではとりわけ帝政時代に、劇場にこれらが携行されていたという。次に載せるのはレムラム百科文庫に納めらているオペラ作品の台本の一つである。百科文庫ナンバー5641と表紙に書かれているワーグナー作『ラインの黄金』。

オペラ作品の一つ『ラインの黄金』(ナンバー5641)

もうひとりこの時代に旧制高校生だった成田山仏教研究所員の渡辺照宏が1976年に書いたエッセイ『レクラム文庫の今と昔』から、興味深い箇所を引用することにしよう。
「私は1924年(関東大震災の翌年)旧制高等学校に入学したころ、日本橋丸善本店の二階の一隅にあったレクラム世界文庫の書棚の前でしばしかなり永い時間を費やした。著者名のアルファベット順に配列してある棚を上から下までゆっくりと検討し、書名を確かめ、読みたい本を心に留めた。小遣銭の乏しい時でも星一個につき二十銭(当時は封書郵税三銭)で最低一冊は買って帰ることができた。・・・高等学校で菅虎雄先生に習ったハウフの『皇帝の肖像』や三浦吉兵衛先生に習ったフケーの『ウンディーネ』も当時レクラムに入っていた。岩元禎先生は教科書版ではなくてレクラム版を教室で使用させた。・・・そのころ、神田の古本屋などでよく古いレクラム文庫を見つけた。やや薄手の表紙の上方にUniversal-Bibliothekと記され、左方に長いリボンを垂らした格好で「各番号ごとに―ー二十ペニヒーでーーどこでも買える」と記されているが、扉の体裁は同じであった。この古い文庫本は消耗品のように失われていったが、固い表紙をつけた上製本も時には古本屋で見かけた」

渡辺氏が書いているような装飾的な表紙の古い『レクラム百科文庫』
ナンバー3874(Die Stumme von Portici)

2 レクラム文庫を模範にして生まれた
岩波文庫

岩波文庫発刊に際しての宣言文

周知のように昭和2年(1927年)7月、岩波書店から「岩波文庫」が発刊され、最初の31点が市場に出ていった。この叢書がレクラム文庫をモデルにして作られたことは、今なお岩波文庫の各巻の末尾に印刷された「読書子に寄すーー岩波文庫発刊に際してーー」という文章の中に明示されているのだ。そこには「・・・吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今東西にわたって文芸・哲学・社会科学・自然科学等種類の如何を問わず、いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわめて簡易な形式において逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する。この文庫は予約出版の方法を排したるゆえに、読者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選択することができる」とある。ここに書かれている「文庫の内容の多様性」「古典の強調」「本の外観の規格化(簡易なる形式)」「予約出版に頼らない叢書の個別売り」などの原理は、第三章「レクラム百科文庫の創刊」のところで述べるように、レクラム文庫発刊にあたっての基本的な原則であったのだ。

またこの岩波文庫発刊の宣言文の冒頭には、次のような文章も書かれている。
「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸がもっとも狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことは常に進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう」
アントン・フィリップ・レクラムの根本理念が「知識・教養の仲介を通じての民衆の政治的解放」にあったことは、第三章をお読みになれば、直ちにお分かりいただけよう。

岩波書店が戦後の1951年に読者との交流を緊密にし、かつ同社の広報宣伝を図るために発刊した雑誌『文庫』に岩波文庫略史が掲載されているが、それによるとこの格調高い「文庫創刊のマニフェストの草稿が(哲学者)の三木清氏によって作られ」「(岩波書店当主の)岩波茂雄が手を入れた」とされている。またこの宣言文の続きに、文庫発刊の具体的な動機ともいえる次のような文章が書かれている。「近時大量生産予約出版の流行を見る。その広告宣伝の狂態はしばらくおくも、後代にのこすと誇称する全集がその編集に万全の用意をなしたるか。・・・このときにあたって、岩波書店は自己の責務のいよいよ重大なるを思い、従来の方針の徹底を期するため、すでに十数年前より志してきた計画を慎重審議この際断然実行することにした。」

岩波文庫発刊の経緯

この宣言文を理解するためには、昭和二年(1927年)前後の日本の出版界の事情を知る必要がある。そこで当時の出版界を振り返って、この叢書が生まれた経緯をざっと見てみることにしよう。まず宣言文に書かれた「大量生産予約出版」ないし「後代にのこすと誇称する全集」というのは、改造社が大正十五年(1926年)に一冊一円で発売を始めた『現代日本文学全集』、いわゆる円本のことである.

当初は大博打として始められたこの企画が大当たりして、その後各社一斉に同種の企画が続出して、「円本騒動」といった事態が起きていたのであった。こうした騒ぎの中で「創立十余年まだ出版界ではそれほど有力ではなかった」岩波書店から岩波文庫が発刊されたわけである。しかし日本の文庫本の研究者矢口進也によれば、「それが円本大流行の風潮に逆行する文庫の刊行に「永遠の事業」と銘うったのであるから、大風呂敷とみられても仕方なかった。」

「また、いかにも長年暖め続けた企画のようにうたっていても、それが拙速、急ごしらえ計画の見切り発車であったことは、のちに関係者の語るところである」という。この関係者は「岩波文庫略史」の中で、この点について次のように記してる。
「山本さんの圓本計画は玄人筋では気の毒ながらうまくゆくまいと、はじめはたかを括っていたのである。そして岩波書店などはそういう考え方では第一人者であった。」ところが圓本が大当たりをして焦りを感じた岩波書店でも「岩波らしい計画を次々にたててみた。ところがちゃんとした計画を立てようとすると時間がかかり、ついに絶望して圓本計画を捨て、全然目先を変えてドイツのレクラムに範をとり、計画されたのが岩波文庫であった」という。そして「この計画の立案者は間違いなく岩波茂雄である。学生時代に読んだレクラム文庫のことが絶えず彼の頭の中にあったのであろう。それが圓本騒動の大嵐の中で、出版者としての彼の頭の中にクローズアップされたのは幸いなことであった」と付け加えている。

岩波文庫成立の裏話には、このほかいろいろ興味深いエピソードがあるが、ここではこれ以上立ち入る余裕はない。ただ岩波は発刊理念や内容面でレクラムを模範としただけでなく、その外観・装丁の面でもレクラム版をいろいろな点で参考にしていた。例えばその判型をレクラム百科文庫のものとほぼ同じにした点や、表紙の色をレクラム百科文庫のものとよく似たラクダ色にした点、そしてさらに価格設定に当たってナンバー制度と星印による表示法を採用した点などである。

岩波文庫の表紙
装丁は平福百穂画伯が選んだ正倉院御物の古鏡の模様だといわれている

岩波とレクラム

ところで明治の中頃から日本でよく知られていたレクラム百科文庫は、岩波以前にもいろいろな出版社が模倣の試みをしていた。中でも大正三年(1914年)の<アカギ文庫>は、キャッチフレーズに「日本のレクラム」をうたうなど、ドイツのレクラム文庫は、文庫のお手本としてさまざまな文庫の宣伝に利用されていたようだ。しかし実際にレクラムに比肩し得たのは岩波文庫だけであった。

いっぽう1867年にレクラム百科文庫が創刊されたとき、なお中小の一出版社に過ぎなかったレクラム社が初期になめた苦難には大きなものがあったが、この点、初期に苦労した岩波書店と共通したものと言えよう。しかし両社とも高い志と理想主義的な出版の理念を堅持し、同時にその理想を実現するためのしたたかな経営的な才覚を持っていた点でも、共通していたようだ。

ちなみに創業者の岩波茂雄(1881-1946)は、明治末期の1900年代に一高、東大に学び、そこでレクラム文庫を読んだわけである。そしてレクラムを模範として自らの文庫を創刊した岩波は、創刊後もなおレクラムのことが頭から離れず、ことあるごとにレクラムを引き合いに出している。岩波文庫創刊直後の1927年夏には、知り合いのドイツ文学者佐藤通次にたのんで、同社の雑誌『思想』に「レクラム文庫の沿革」という文章を書いてもらっている。これはレクラム文庫の中に収録されている作品が大体どんなものかを概観したものである。

そして自らの文庫を始めてから8年目の1935年にはドイツに行き、レクラム社を訪問して、その印刷工場まで見せてもらっている。ただドイツはその2年前からナチス体制になっていたこともあって、レクラム文庫の中にはヒトラー演説集まで入っていた。岩波発行の『文庫』の記事によると、「ヒトラーを最も嫌っていた岩波は、この一事だけでも、そのころのレクラムを尊敬する気にはならなかったらしい」という。 さらに岩波は印刷工場の印象を語った後、「岩波文庫のように古今の典籍をちゃんと出しているものは、世界中にないと繰り返して言い、満足そうであった」という。事実本家のレクラム百科文庫の中には、のちに整理されて縮小したとはいえ、人気流行作品などが混じっていた。またナチス時代にはその圧力によって収録作品にも影響を受けていたことは確かである。レクラム社にとっては都合の悪い時に遠来の友が訪れた、というところであろう。

しかし岩波としても、レクラム文庫全体について関心を失ってしまったわけでは決してなく、その3年後の1938年には、同社発行の雑誌『岩波月報』に経済学者の大塚金之助に依頼して、「レクラム文庫」という小文を書いてもらっている。これは収録されている作品の概観にとどまらず、時代との関連など、やや広い視野に立った紹介となっている。この小文は全体としてレクラム百科文庫を高く評価しながらも、その「缺點や癖を舉げたら色々あるだろう」として、当時のレクラムに批判を加えている。そして最後に「七十年の間に世界は変化した。ドイツにもレクラムにも若さがなくなった。トーマス・マンは亡命作家となった。自由主義時代のレクラム文庫は終わりを告げるのである」と結んでいる。

岩波茂雄は終戦直後の1946年に亡くなったが、岩波とレクラムとの関係がそれによってまったく断ち切られたという事ではなかった。岩波書店は1951年、岩波文庫の愛読者を会員とする「岩波文庫の会」を作り、その会誌として『文庫』を創刊した。そしてその第一号には「岩波文庫とレクラム」と題した小泉信三のエッセイが載せられた。またその表紙には1928年のレクラム社創立百周年を記念して行われたトーマス・マンの演説からの抜粋が、小さな文字で掲載されている。さらに50年代には折に触れて、かつての旧制高校生のレクラムへのノスタルジーに満ちた思い出話が載せられていた。

いっぽうレクラムの側では岩波をどのように見ていたのであろうか。両出版社の関係については、戦後レクラム社から岩波に送られてきた一通の手紙がある。そしてその手紙の最後に次のような部分がある。「あなたはおそらくご存じないかもしれませんが、この第二次世界大戦の勃発前に、私の父と岩波書店主との間にすでに一つの文通がとりかわされ、それによって貴社は私をある期間無給見習い社員として採用してくださることに、原則的な承諾が与えられていました。私は、この計画が戦争の勃発によって空に帰してしまったこと、したがってあなた及びあなたの会社そしてあなたの美しい国を 知ることができなくなったことを、大変残念に思っています」

この文章から推測するところ、差出人は四代目のハインリヒ・レクラム、受取人は岩波二代目の雄二郎であることは間違いない。ただこの手紙が掲載されている『文庫』の「後日譚ーー岩波茂雄とレクラム社」には、それに続く部分で次のように書かれているのだ。「面白いことだから、この話のあったころ岩波茂雄の秘書をしていた人や、いつもそばにいた人たちに聞いてみたが、誰にも確かな記憶がない。しかし、こんなことを作ってわざわざ言ってくる筈はないから、事実に違いない」

もう一つアンネマリー・マイナー女史が第二次世界大戦中の1942年に出した『レクラム、百科文庫の歴史』の中では、「レクラムと模倣」という項目が設けられ、そこでドイツ国内・国外のあまたの類似の廉価文庫が多かれ少なかれレクラムの影響で生まれたことが述べられた後、岩波文庫についても触れられている。その箇所を次に引用することにする。
「1927年に創刊された日本の叢書岩波文庫は注目に値する。なぜならこれは内容・外観ともにドイツの模範に従っているからだ。同じ判型、同じ黄赤色の表紙に裏表紙の出版社章、背中の表題、ナンバーそして星印までも同じだ。ただ表紙と裏表紙に描かれた模様だけは日本製だ。今日すでに約五千点にも達しているこの叢書が百科文庫と違う点は、これが学術出版社の岩波書店から出版されているという事だけであるが、日本人にとってこの叢書は、われわれにとってのレクラムのような意味を持っているのだ。これは百科文庫と全く同様に、まず国民文学(日本の小説、戯曲、詩、音楽、舞踊)が来て、それから世界文学が来ている。次いで哲学、自然科学、宗教、教育、さらに法律、社会学、政治学、経済学となっている」

次回は第二章 創業者アントン・フィリップ・レクラム をお届けします。

1999年 ロシア・バルト三国の旅(その4)

ヴィリニュス、クライペダ、
カリーニングラード見聞記

この地域の地図(ロシア、ベラルーシ、バルト三国)

9月15日(水)曇り後晴れ
リーガからヴィリニュスへ

ラトヴィアの首都リーガのホテルで6時起床。朝食をとり、チェックアウト。そしてバス・ターミナルへ。8時10分、ベラルーシのミンスク行きのバスに乗る。私の目的地はリトアニアの首都ヴィリニュスなのだが、そのバスはそこを通って東隣の国ベラルーシの首都ミンスクまで行くのだ。上の地図を見ていただければ明らかなのだが、現在ロシア連邦の友好国のベラルーシは、ラトヴィアとリトアニアの隣国で意外と近いのだ。この地図を見れば、リーガ発の長距離バスが二つの国境を越えて、ミンスクまで行くのが、それほどのことでもないことは納得いただけるであろう。

さて私の乗ったバスはロシア製で、古くて設備が悪いが、定刻に出発した。天気は一面の曇天で、うすら寒い。長距離バスだが、途中の乗り降りが結構多い。

リーガからヴィリニュスへ向かう途中のバス停留所

9時40分、国境の検問所に着く。旅券検査の間に私はその検問所で、40ドル分リトアニアの通貨リタLtに両替した。

ここでリトアニア共和国の概要について、ざっと紹介しておこう。総人口は約370万人。首都のヴィリニュスは人口57万8千人、第二の都市カウナスが人口42万人弱。そして第三は港町のクライペダで、人口は20万人強。宗教はキリスト教(カトリック)。在リトアニア日本大使館は首都のヴィリニュスにある。また言語的には、インドーヨーロッパ系の中のバルト語系。13世紀ドイツ騎士団の侵入に対抗して国家を統一した。14世紀にリトアニア大公国と称し、バルト海東岸一帯を領した。(『地球の歩き方 バルト三国 1998~99』)

ヴィリニュス(旧市街)の地図

さてバスは10時に検問所を出発した。すでにリトアニア領であるが、やがてバスは高速道に入った。この高速道がヴィリニュスまで続くのだ。道路標識の色は、一般道が青地、高速道が緑地で、よく整備されている。またリトアニアは日本との時差が―7時間だ。バスは正午過ぎ、ヴィリニュスのバス・ターミナルに到着した。バスの旅は決して快適ではないが、現地の人々の生活の一端を垣間見ることができて、貴重な体験だ。

ターミナルで下車し、すぐにタクシーを捕まえて、予約したホテルへ向かう。ホテルは新しく、設備が良い。チェックインして、部屋に入るとすぐにバスタブにつかって、長旅の疲れとほこりをとる。すると急に空腹を感じて、ホテル内のレストランで食事をとり、元気を回復する。

午後3時半ごろホテルを出て、ネリス川を渡って、賑やかな旧市街の一角に入る。そして郵便局を見つけて、日本あてに絵葉書を出す。旧市街北部にある大聖堂前は工事中だったので、近くの公園に入る。すると数人の女子生徒が近寄ってきて、どこから来たのかと、英語で聞いてきたので、日本からだと答えた。するとそんな遠いところからよく来たものだと言い、私のカメラで一緒に記念写真を撮ることになった。

公園で女子生徒たちと

その後大聖堂の内部を一通り見てから、裏手のゲディミナスの丘に登り、町を展望する。ヴィリニュスは周囲をゆるやかな丘と緑の樹木に足り囲まれた内陸の静かな町だ。

展望台からの緑多い街の眺め

また展望台のすぐ下には、先ほど入った大聖堂の真っ白な外壁が見えた。そして丘の上には城や塔が立っている。

丘の下の大聖堂

丘の上の平らなところを一通り見て歩いてから、再び丘を降りていく。それから近くの中華店で夕食をとって、8時半ごろホテルへ戻る。

9月16日(木)晴れのち曇り
ヴィリニュス二日目

ヴィリニュスのホテルで7時起床。そして朝食後8時過ぎホテルを出る。晴れやかな朝の空気の中をネリス川に沿って、散歩がてら聖ペトロ・パウロ教会へ向かう。外観は普通だが、内装の豪華絢爛さは息をのむほどだ。17世紀後半のバロック様式の彫刻が、壁面を埋め尽くしている。

聖ペテロ・パウロ教会(17世紀後半のバロック様式の建築)

 

壮麗極まりない内部装飾

次いで旧市街との間にある「三つの十字架の丘」に登る。そこからの町の眺望は、昨日見たゲディミナスの丘からの眺めに、勝るとも劣らない。また丘へ登る途中、野外ステージを見かけたが、そこでは合唱祭が時折開かれるという。リトアニアに限らずバルト三国では、合唱と花が愛されているのだ。このことは以前日本のテレビでも紹介されていたのを覚えている。

合唱祭に使われる野外ステージ

ついでながらカトリックの国リトアニアには教会も多く、十字架が目立っている。その十字架の形が独特なのに注目した。

独特な形の十字架

丘から降りる道で迷ったが、何とか旧市街にたどり着いた。そしてマクドナルドで軽い昼食をとる。その後「民族歴史博物館」に入る。民族衣装や生活風俗に関するものは見て分かるが、政治や軍事にかかわるものは、英語や独語の説明書きがないので、理解できない。次いで近くの「ヴィリニュス大学」に入る。授業が行われていたが、構内への立ち入りは自由だ。女子学生の姿が多い感じだ。

ヴィリニュス大学

次いで近くにある大統領官邸の前を通りかかったので、中には入らずに、正面から眺めた。それから近くの民芸品店で、民族衣装に巻きつける美しい模様の帯を、土産として買い求めた。その後旧市街を南へ進み、その南端に建つ「夜明けの門」にたどり着く。その門の上部に教会があったので、好奇心から中に入ってみる。

「夜明けの門」

その後は一転して旧市街を北に向かい、16世紀ゴシック様式の「聖アンナ教会」に入る。折からミサの最中。しばらく見学する。外観は北独風のレンガ造りだが、内部はカトリックの華麗な装飾に彩られていた。

聖アンナ教会(33種類のレンガが使用されているという)

夕暮れが迫ってきたので、ホテル方面へ急ぎ、途中「ゲディミナス大通り」のピッツェリアに入り、イタリア料理の夕食をとる。スープ、サラダ、スパゲッティに白ワインを飲んで、29リタ(800円)の安さだった。

9月17日(金)曇り後晴れ
ヴィリニュスからクライペ
ダへ 

ヴィリニュスのホテルで午前5時過ぎ起床。仕度をしてチェックアウト。朝食の代わりにサンドイッチをもらう。そして迎えの車でヴィリニュス駅へ。迎えの人が親切で、プラットフォームまで荷物を運んでくれる。そこに停車している列車は登り口の高い旧型の車両だ。一等車だと思われるが、設備が悪い。しかし定刻の6時45分に列車は出発した。車内はすいている。行き先はリトアニア西部の港町クライペダだ。車窓の景色は、自然が豊かで素晴らしい。しかし列車は激しく揺れる。それはともかく11時45分にクライペダに到着した。ヴィリニュスでは天気が曇っていたが、ここでは晴れていて、暑いぐらいだ。迎えの人が、珍しく英語で話しかけてくる。こちらも気持ちが楽になり、タクシーであっという間にホテルに着く。チェックインして、部屋に入ったが空腹で、疲れがどっと出る。そこですぐに風呂につかって、疲れをとる。

街へ出る前に、このクライペダについて案内書の説明を引用しておく。「ここはリトアニア第三の都市で、国の海運を一手に引き受ける港町。町の起源は13世紀にさかのぼる。1252年にここを占領した(ドイツ騎士団の中の)リヴォニア騎士団は城を築き、メーメルブルクとなずけた。その後騎士団は衰退したが、町はプロイセン領としてドイツ人の手に残った。今は歌われることのないドイツ国歌の第1節に「マース川からメーメル川まで・・・」とあるように、クライペダ(ドイツ時代はメーメル)はドイツ帝国の東端の町としての運命をたどることになった。」(『地球の歩き方 バルト三国 1998~99)

ここで補足説明をしておくと、この歌を作詞したのは、19世紀前半の愛国の詩人フォン・ファラースレーベンで、1871年のドイツ統一以前、統一運動が盛んな時代に作ったものだ。その後この町は第一次大戦のドイツ敗北に伴い、国際管理地になったが、1924年にロシア帝国から独立したリトアニアに編入された。しかしドイツにナチズムが起こるとドイツ系住民はこれに呼応し、クライペダはドイツのものとなった。そして第二次大戦中の1940年にバルト三国がソ連に併合され、やがてクライペダもソ連のものとなった。その後長い冷戦期間の後の1991年に、バルト三国がソ連から独立し、クライペダも再びリトアニア領となったのだ。

クライペダの地図

クライペダは以上説明してきたように、歴史に翻弄されてきたが、私が元気を回復して最初に訪れたのも、そうした歴史に関連したところだ。つまり空腹を満たすため、まず近くのピッツェリアで食事をした後、旧市街の一角にある劇場広場を訪れたわけだ。

劇場とその前の広場に設置された噴水及び記念像

この劇場のバルコニーで、第二次大戦中ヒトラーが演説したという。ヒトラーは占領した東欧地域、とりわけ中世にドイツ騎士団が活動していた場所を好んで訪れていたといわれる。

劇場前に立つ少女像及びその下に詩人のレリーフ

この少女はドイツ民謡「エーンヒェン・フォン・タラウ」に出てくる人物で、その下のレリーフの男はこの民謡の作詞者ジーモン・ダッハである。この歌は今でも、昔を懐かしがるドイツ人のために、テレビの歌謡番組で歌われているようである。いわば「ナツメロ(懐かしのメロディー)」なのだ。またこの劇場広場周辺には、見事なファサードを見せる、美しいドイツ風の建物をいくつか見かけた。

その後旧市街のはずれにある船着き場へ向かった。そこはクルシュ海と呼ばれる内海に面していて、対岸にある細長い砂州との間をフェリーが往復しているのだ。上に掲載したクライペダの地図を参照されたい。私は3時発のフェリーで対岸へ渡ったが、その間わずか5分だ。そして馬車に乗って、砂州のはずれにある海洋博物館を訪れた。

クルシュ海に浮かぶ、バルト海航路の船

博物館の建物は昔の要塞を改造したものだ。海洋に関連した展示物も、いろいろ豊富にあって、興味深いものがあった。

海洋博物館の外観

博物館の中を一通り見た後、5時15分発のフェリーで再び旧市街に戻った。そのあとまだ時間があったので、新市街を見て歩いたが、何の変哲もない町並みが広がっていた。明日はロシアの飛び地カリーニングラードへ移動するので、それに備えて街歩きは早めに切り上げて、ホテルへ戻った。

9月18日(土)晴れ
クライペダからカリーニングラードへ 

クライペダのホテルで7時ごろ起床。ゆっくり朝食をとってから、チェックアウト。そして9時ホテルからタクシーに乗り、バスターミナルへ。昨日確認しておいたおかげで、バスの乗り場がすぐにわかる。カリーニングラード行きのバスに乗り、そのバスは9時40分に出発した。市街地を通って、昨日も利用した船着き場に到着。バスはフェリーに乗り込み、クルシュ海(内海)を渡って対岸のネリンガ(細長い砂州)に着いた。カリーニングラード行きのバスは1日2本あり、12時8分発のバスは内陸部を通っていくのだ。私はネリンガ(細長い砂州)を通ってゆくというルートに大きな魅力を感じて、砂州経由にしたのだ。

  

ネリンガ(細長い砂州)とその周辺

バスはその後、細長い砂州の上を、東北から西南へ向かって一目散に走っていく。時々海が見え隠れするが、道の両側にはおおむね並木が続いている。やがて海岸保養地ニダを通り過ぎてゆく。この保養地にドイツの作家ト-マス・マンが、1930年代初めに滞在してことがあるという。このニダの町を過ぎると、国境の検問所があらわれた。砂州の東半分がリトアニア領で、西の半分はロシアの飛び地であるカリーニングラード州になっているのだ。検問所では、荷物の検査と税関申告書を提出したが、検査は特に厳しいことはなく、ほぼ型どおりに終了した。

その後ネリンガ(砂州)の残り半分を走って砂州は終わり、バスは南下してカリーニングラードの町中に入っていった。車が多くゴミゴミとした感じで、おまけに道路が悪く、バスは揺れる。全体として雑然とした感じで、街並みの美しさなど全くない。

ソ連時代に建てられたアパート群

途中写真で知っていた大聖堂だけが見事だが、周囲の景色とは不調和だ。この大聖堂については後に詳しく紹介する。やがてバスはターミナルに到着した。そこからタクシーで、町の北部にあるホテル・コモドールに入る。日本との時差はラトヴィアと同じく、-6時間だ。ホテルは独人用に建てられた新しい建物だ。つまり冷戦後この町を訪れるドイツ人が増えたのだが、第二次大戦末期にソ連に占領支配されるまで、カリーニングラードはドイツ領で、ケーニヒスベルクと呼ばれていたのだ。遅い昼食をホテルでたっぷりとる

そもそも私がこの町に来ようとしたきっかけは、この年の夏前に東京の日独協会主催で、カリーニングラード在住のロシア人のカント研究者カリニコフ教授の講演があり、それを私が聴いたことであった。講演の後教授に向かって、9月にカリーニングラードへ行ってお会いしたいと申し出た。すると教授はこちらの図々しい要望に快く答えてくれたのだ。そんなわけでこの日は教授との対面への準備をすることになった。

9月19日(日)快晴
カリーニングラード滞在

ホテルで7時起床。朝食後、8時半と9時に2回、カリニコフ教授に電話したが不在で、夫人に伝言を頼んで、ネクタイを締めて外出しようとしたとき、教授から電話があり、自宅に招待された。早速タクシーを拾って、聞いていた住所の家を訪れた。その場所は思いもかけず、市の中心部の大聖堂の近くにあった。家は高層アパートの中にあり、建物の外観は薄汚れていたが、中に入ると学者の住まいらしく、きちんと整理されていて、立派な家具もある。

カリニコフ教授が住んでいるアパートの外観

カリニコフ教授の部屋の中

カリニコフ夫妻

日本でもお顔を拝見した夫人は、ロシア人の女性らしく、お茶やお菓子を出したりして接待してくださった。別居している息子さんはコンピューター関係に関心があり、将来日本へ留学したいそうだ。ただ教授はソ連時代、ドイツ人の哲学者カントを研究しているというので、冷遇されていたという。しかし冷戦が終わり、研究面でも自由になり、ようやく光がさしてきたという。長年ドイツ語の書物を読んで研究してきたが、ドイツ人との交流がなく、ドイツ語の会話は得意でないそうだ。

しばらく英語で話し合った後、教授の案内で外出することになった。そしてカントゆかりの場所を中心に見て回った。まず最初に訪れたのは、ドイツ側の資金援助で、昨年最終的に完成したばかりの大聖堂であった。

大聖堂の正面。堂々としており、形も色彩も落ち着いている

大聖堂の入り口に立つカリニコフ教授

大聖堂の裏手には、カントの墓碑銘が見える。

カントの墓碑銘と私

この建物は一階がロシア正教の寺院で、2階から上が「カント博物館」になっている。その館長さんがカリニコフ教授なのだ。

大聖堂内のロシア正教礼拝堂

カント博物館をひととおり見た後、カリニコフ教授が務めている大学へ行った。
その外側に置かれた大きな石には、ロシア語とドイツ語で、1544年にこの場所でケーニヒスベルク大学の建物が落成した、と書かれている。これが書かれたのは、1994年だ。ちなみにカントは、18世紀後半、このケーニヒスベルク大学に勤めていたのだ。

大きな石に書かれた銘文

大学の周辺から池に沿って二人で散歩したが、この辺りはカントも毎朝、時計のように決まった時刻に散歩していたところだという。この池の周辺一帯は、カリーニングラードの町中の喧騒が嘘のような静けさだ。

カントが毎日散歩した池

その後池の近くにある「琥珀博物館」に入る。琥珀(こはく)は地質時代の樹脂が石化したもので、黄褐色ないし黄色で樹脂光沢があり、透明ないし半透明。様々な装飾に用いられていて、私も琥珀のカフス・ボタンを買い求めた。バルト海沿岸が産地になっているそうだ。

その後街の西部を歩き、シラーやプーシキンの立像を見てから、再び教授の住まいに戻る。夕方、夫人の手作りの料理をご馳走になる。そして教授とチェスの対局をする。相手はチェス愛好者の多いロシア人なので、さすがに強く、2局とも負ける。こうして半日以上をカリニコフ教授と共に過ごした後、5時過ぎホテルに戻った。教授は明日から24日までカント会議に参加するという。全く運よく、付き合ってくれたわけだ。夏前に夫人とともに日本を訪れた時、世話をしてくれた板生さんという日本人女性へのお礼の意味もあったようだ。そのことに感謝し、併せて今日一日の行動の記録を伝える内容の手紙を、この夜ホテルで、板生さんあてに書いた。

9月20日(月)晴れ
カリーニングラードからグダンスクへ

今朝は7時ごろ起床。ゆっくり朝食をとり、9時にフロントでポーランドのグダンスク行きの列車の切符の件について尋ねる。するとしばらくしてカリーニングラードの旅行社の人が現れ、切符を持参してくれた。こうして10分後にチェックアウトして、旅行社の車で、動物園近くの事務所へ行き、そこに荷物を置いて、市内見物に出る。まず「歴史博物館」へ行ったが、あいにく閉館中。やむなく近くの池を再び散歩してから、大聖堂を訪ねる。そして近くのレストランで、たっぷり昼食をとる。次いで再び動物園前までタクシーで戻り、せっかくなので中に入って動物たちを見物する。その後歩いているとき、偶然、ドイツ時代の名残の門を見かけた。どっしりとしたレンガ造りで、優雅で美しい。

  

ドイツ時代の名残の門

その後、午後3時に旅行社の車で、カリーニングラード駅まで行く。がらんとしたプラットフォームに、すでにポーランドのグダンスク行きの列車が待機している。そこですぐに一等車のコンパートメントに入ったが、乗客は私一人だけ。しかし発車間際になって、ウオッカと外国製のたばこをたくさん持ったグループがどやどやと乗り込んできて、私の座っている座席の反対側の座席を持ち上げて、それらのものを隠し始めた。明らかに密輸関係の連中だと思われたが、こちらが外国人だという事で、安心しているらしい。ほかの車両からも大きな声が聞こえてきたが、連中はやがてどこかへ消えていった。

こうしてやがて列車は、何事もなかったかのように動き出し、グダンスクへ向かっていった。私の旅はこの後、ポーランドの港町グダンスクへ行って、昔のハンザ同盟都市ダンツィヒの痕跡が何か残っているのか探りたいと思ったのだ。そしてそのあと列車でドイツのベルリンへ移動した。

4回にわたる私の「1999年9月のロシア・バルト三国」の見聞記は、これをもって終了とする。

1999年 ロシア・バルト三国の旅(その3)

バルト三国のエストニアとラトヴィア見聞記

            

バルト三国の地図

今回はバルト3国の中のエストニアとラトヴィアの見聞記をお伝えする。エストニアは一番北にある国で、その首都タリンはバルト海の最も東に位置した港町である。反対側にはフィンランドの首都ヘルシンキがある。目と鼻の先といってもいいぐらいの距離だ。人口は1996年の時点でわずか145万人の小さな国である。そのうち65%がエストニア人である。首都のタリンは人口42万人だ。ロシアのサンクト・ペテルブルクが一番近く、鉄道でタリンと結ばれている。前日夜中の寝台列車内での出来事については、前回のサンクト・ペテルブルク見聞記の最後で、書いたとおりである。

タリン(旧市街)の地図

9月10日(金)霧のち晴れ
エストニア

サンクト・ペテルブルクからの寝台車では、国境の検問の際の不愉快な出来事のため、あまり眠れぬまま、タリン駅に到着した。外は深い霧に包まれていた。それでも迎えの車に乗り、午前7時前に「ホテル・サンタバルバラ」にたどり着いた。

ホテル・サンタ・バルバラ(旧市街のすぐ南に位置している)

ただ10時にチェックインで、まだ早いので、受付に荷物を預けて、ホテル内で朝食をとる。これで再び元気を取り戻し、ホテルの受付で50ドルを、エストニアの通貨クローンに両替した。レートは、98年の時点で1ドル=14クローン。その後ホテルを出て、旧市街の東側を歩いて、まず中央郵便局に入る。そして昨夜書いたハガキを日本向けに航空便で、6.7クローン払って出した。

その後メレ大通りを北へ向かって歩きだした。やがて分岐点に来たが、そこには下の写真に見るような道路標識があり、まっすぐ進めば港に行けることが分かった。

タリン市内から直進すれば港へ行けるとの標識

こうして港に出た。港にはバルト海汽船など、いくつもの乗り場があった。そこからはバルト海を通って、フィンランドの首都ヘルシンキやスエーデン方面へ行けるのだ。事務所の建物の中に入って、いろいろな施設を見て回った。

船の乗り場の事務所とその手前の広場

乗り場の事務所の正面

 

その後、港から市民ホールのある高い場所に移動して、タリン湾を望む。ヘルシンキは「目と鼻の近さ」のはずだが、肉眼で見ることはできなかった。タリン港をひととおり見てから、再びホテルへ戻ることにする。その途中、大通りに面して立派なガソリンスタンドがあるのが、目に付いた。

立派なガソリンスタンド

こうして再びホテルに戻り、午前10時チェックインして、部屋に入る。広くて、設備もよい。すぐにシャワーを浴び、昨日からの汚れを落とす。元気を回復して、12時ごろ再びホテルを出る。まず高台に上がり、大聖堂を見てから、近くのレストランでゆっくり昼食をとる。それから高台の端にある展望台から下町とその先の港を見渡す。赤褐色の屋根、風見鶏、ゴシック教会の尖塔などは、ドイツの古都とそっくりだ。また旧市街は狭い石畳の道が続いている。歴史的な因縁からドイツとの結びつきは、いたる所で感じられる。旧市庁舎前周辺は、人々でごったがえしていた。日が暮れてきたので、午後7時ごろホテルに戻る。今日の午前中には霧が出て涼しかったが、午後は暑くなった。

高台から見た下町の家の屋根とその先にある港

9月11日(土)晴れ
エストニア   

7時40分電話の音で起こされる。ホテルの中の食堂で、朝食をゆっくりとる。そして再び外出。昨日歩いたので、タリンの町のおよその輪郭がわかってきた。今日は昨日と同じ高台に上がる。まずトーンペア城に行き、裏手の城壁の外側を歩く。

その一角に「のっぽのヘルマン」塔があったが、この城は14世紀前半にドイツの帯剣騎士団によって、最初に建てられた。これは12~14世紀にドイツの諸侯・騎士・修道院などが行った、エルベ川以東のスラヴ人居住地などへの「東方植民」の一環だったのだ。とくに、ドイツ騎士団は先住民のキリスト教化を理由にバルト海東南沿岸地域で、軍事的性格の濃い植民を推し進めたという。

  トーンペア城の「のっぽのヘルマン塔」

城の外壁に貼り付けられた銘板
(「ここに1939年まで聖堂学校があった」とドイツ語でも書いてある)

いっぽう近くのロシア正教の「アレクサンドル・ネフスキー聖堂」ではミサがおこなわれており、ロシア系信徒と思われる人々がたくさん集まっている。この教会は彼らの拠点のようだ。そのあと昨日とは別の展望台に行く。眺めはさらに良い。

その後丘の上の街並みを歩き、やがて下町への坂道を下っていった。下りたところに、日の丸の旗が見えたが、そこが日本大使館なのだ。また旧市街にはEU代表部もあった。当時エストニアはEU 加盟候補国であった。

 日の丸の旗と日本大使館

EU代表部の入り口

またそのあたりに「タリン旧市街がユネスコの世界文化遺産に指定されている」ことが書かれた掲示板(エストニア語、英語、ドイツ語)が立っていた。
しばらく歩いて「歴史博物館」に入る。そこではドイツとの歴史的な関係についても書かれていた。

午後1時ごろ裏通りの小さな店に入った。その店の看板には「Restoran」と書かれていた。サラダとパスタそしてビールで昼食をとる。その際エストニアの地ビール(SAKU)を飲む。

地ビール(SAKU)の看板

次いでラエコヤ広場に出て、旧市庁舎の地下に入っていく。こうした街づくりは、ドイツでは至る所にみられるもので、私にはお馴染みのものだ。一般に東欧地域の街づくりには、ドイツ人の影響が色濃く残っているように感じられる。

ラエコヤ広場と旧市庁舎

そこでは古くからのドイツ人の結社(ブラックヘッドのギルド)についての展示が行われていた。私が入った後、すぐに独人団体客がドヤドヤと入ってきた。そしてその中の一人がドイツ語で、展示について説明を始めたので、勿怪の幸いと私はその説明を傍聴した。

その後城壁を出て郵便局で絵葉書を出し、エストニアの民謡のCDを買う。そして見残した「聖ニコラス教会」に入る。そこでは「死の舞踏」の絵が面白かった。その後ホテルへ向かったが、途中花屋がずっと並んだ場所に通りかかった。エストニアに限らず、バルト3国の人々は花と合唱が大好きなのだ。

花屋がずっと並んだところ

ホテルにいったん戻って、ロシアの飛び地カリーニングラードで会う予定のロシア人カント学者の英文の論文を読み、心の準備をした。そして7時半ごろ外出して、夕食の場所を捜した。はじめ「オルデ・ハンザ」に入ろうとしたが満員だったので、別の場所を捜した。そして「K・フリードリヒ」というドイツ語名の料理店に入る。幸いラエコヤ広場に面した野外席が見つかった。そこは旧市庁舎を斜めに見た特等席で、タリン名残りの夜の素晴らしい雰囲気を満喫することができた。

9月12日(月)晴れ
タリンからリーガへ

タリンのホテルで8時ごろ起床。朝食後ゆっくり仕度をして、10時ごろチェックアウト。11時半タクシーでバス・ターミナルへ。そして12時15分ラトヴィアのリーガ経由リトアニアのヴィリニュス行きの長距離バスに乗る。バルト三国を貫く、まさに長距離のバスなのだ。バスはタリン港でも客を乗せ、のどかな道を南下。道には車が極めて少ない。また沿道も野原と林が延々と続いている。直射日光がきつい。途中沿道には、MAZDA, HONDA,SUBARUなど日本車を宣伝する看板が目に入る。エストニアではRIGAはRIIAと表記されている。

3時間後の午後3時15分ラトヴィアとの国境検問所に到着した。係官がバスに乗り込んできて、全員の旅券を集めて事務所に持っていく。その間旅客はバスを降りて、外の空気を吸う。私もトイレに行き、20ドル分をラトヴィアの通貨ラットLsに両替する。検問所にはMUITA(CUSTOMS)の標識が立っている。やがて旅券は返却され、25分後にバスは再び出発する。次第に車が増えてくる。また工事のため一時渋滞もある。首都のリーガに近づくと、道路の混雑はさらに増してきた。高速道路がないので、追い越しが大変だ。道路標識は青色でドイツ風。午後5時45分、バスは旧市街の外のターミナルに到着した。バスを降りてから、おんぼろのタクシーを拾って、ホテルへ向かった。旧市街の真ん中にあるので、車が入りにくいところだ。

 修道院を改修したホテル

ホテルは修道院を改造した独特の建物だ。そのホテルに入り、チェックイン。そして、部屋に入るとすぐにシャワーを浴びる。その後腹がすいていたので、外出して、「アールス・ヤータ」という名前の田舎風ビヤホールで、夕食をとる。

ここでラトヴィア共和国の概要を書いておくと、1996年の統計で、人口は250万人弱。そのうち55%がラトヴィア人。首都のリーガの人口は81万6千人。宗教はキリスト教。北、西部にルター派プロテスタントが多く、東部にカトリックが多数。

首都リーガ(旧市街)の地図

9月13日(月)曇り後晴れ
リーガ

午前7時起床。朝食後、雑用を済ませてから、9時ごろ街へ出る。曇っていて、やや涼しい感じだ。まず旧市街の外側を東北に沿って伸びている緑地帯(公園)に出る。

 公園の一角には、木の間隠れに堂々たる国立オペラ座が姿を見せていた。

国立オペラ座(公園の一角に立つ)

公園の中を歩いてから、その外側に沿って流れている運河を渡ると、背の高い(51m)「自由記念碑」が聳えていた。ロシア帝国からのラトヴィアの独立を記念して、かなり後の1935年に建立されたものだ。第一次世界大戦後の1918年11月にラトヴィアは独立を宣言し、20年8月にソヴィエト政権が承認したものだ。

  高さ51mの自由記念碑

自由記念碑の近くの大通りのわきの歩道で、花を売っているおばさんの姿を見た。ラトヴィアの人は花好きだといわれている。また新市街にはドイツの「ユーゲントシュティール」様式の建築群がある。これは日本の美術愛好家の間で知られているフランスの「アール・ヌーヴォー」様式の建築と似たものらしい。公園の外側のアルベルタ通りとエリザベテス通りに建っている。建築の期間は19世紀後半から20世紀初頭で、『戦艦ポチョムキン』で有名なロシアの映画監督エイゼンシュタインの父親ミハイル・エイゼンシュタインも代表的な建築家で、彼が設計した建築物も幾つかあるという。ソ連時代には長らく放置されていたが、独立後修復が進んでいる。以下写真で数枚紹介するが、極めて装飾的で、造形といい色彩といい、美しい。私も大好きだ。

ユーゲントシュテイール様式の建築物(1)

ユーゲントシュテイール様式の建築物(2)

 ユーゲントシュテイール様式の建築物(3

ユーゲントシュテイール様式の建築物(4)

その後、再び旧市街を通って、ダウガワ川に臨んだ河川港に達した。その川は少し先で、バルト海に注ぎ込んでいる。この港自体は、タリン港に比べて規模が小さい。

ダウガワ川とアクメンス橋

しかしダウガワ川は川幅が広く、立派な川だ。リーガの街にとって、この川は欠かせないようだ。

 

ダウガワ川の手前左手のカマボコ状の建物は中央市場

港を見てから再び旧市街に戻り、リーガ城を横目で見てから、聖ヤコブ教会、三兄弟、スウェーデン門、城壁、火薬塔などを見て回る。この辺りは旧市街の中でも、とても雰囲気のある地域だ。

 城壁の内側

火薬塔(現在は博物館になっている)

少し離れた所に交響楽団ホールがあった。その掲示板にコンサートの日程が書かれていたが、本日と明日しか、こちらの時間がないので、音楽会はあきらめざるを得なかった。そしてさらに旧市街の散策を続けた。これまで何度も述べてきたように、タリンでもリーガでもドイツとの歴史的つながりはいたる所で確認できたが、この散歩でもそのことを実証できた。例えばレンガ造りと重厚な建物が、北ドイツのハンザ同盟都市と同じつくりだったり、北独ブレーメンの有名な童話「ブレーメンの音楽隊」に出てくる4匹の動物をかたどったものを、たまたま見かけたりしたのだ。

北独ハンザ都市と同じつくりのレンガの家

聖ペテロ教会の前に立つ
ブレーメンの音楽隊」に出てくる(4匹の動物)の像

旧市街には歴史と文化を凝縮したものがたくさん集まっていたが、その一方人々の生活と直結したものを、散歩の途中見かけた。それらをいくつかご紹介することにしよう。

洒落た作りの食料品店  

ドイツ薬局の看板

インターネットカフェ
(バルト3国では、IT関連のものが発達しているようだ)

ドイツとラトヴィアの経済的絆を持つ企業・団体を示す表示板

1時ごろ「マクドナルド」で昼食をとってから、再び外側の公園を散歩する。そして旧市街に戻り、リーガ大聖堂に入る。この大聖堂はドイツの帯剣騎士団が占領したリヴォニア地域(現在のエストニアやラトヴィア)の宗教的な中心をなしてきたといわれている。 大聖堂のステンドグラスが美しい。18世紀後半のものと言う。 次いで聖ペテロ教会に向かったが、72mの塔の上へは、エレベーターで上がれる。

少し離れた聖ペテロ教会の72mの塔の上から見た大聖堂(左手の建物)

また聖ペテロ教会周辺では大規模な建築工事が行われていた。そこは中世ドイツ人の結社「ブラックヘッド」の建物が、2001年のリーガ創立800年祭に向けて再建中だ。この建築工事には、ドイツ資本の協力があるものと思われる。ここは戦前までは、美しい旧市庁舎と広場があった所だ。

聖ペテロ教会の72mの塔の上から見た建築工事現場

ちなみにブラックヘッド(黒頭)というのはエチオピアの守護聖人で、ドイツ人商人が作っていた団体(ギルド)のシンボルなのだ。

エチオピアの守護聖人「ブラックヘッド」をあらわしたもの

それから近くのデパートをのぞいて、どんな商品があるのか見て回った。こうして午後4時ごろいったんホテルに戻った。そして6時半ごろ再びホテルを出て、「セナ・リーガ」という雰囲気のある地下のレストランで夕食をとった。

9月14日(火)曇り後晴れ

午前8時起床。朝食後、昨夜立てた計画に従い、今日は、リーガ市郊外の海岸保養地ユールマラへ行くことにする。9時半ホテルを出て、リーガ駅へ。駅の時刻表を見て、10:02発のドゥブルティ行きの電車に乗る。そしてユールマラの中心地のマユアリ駅に10:42到着する。

のどかなマユアリ駅

ユールマラ海岸保養地の概要を示す地図

まず目抜きのヨマス通りを散歩する。夏の盛りが過ぎて、人影は少ない。広々とした並木道があり、気持ちが良い。

マユアリ駅から伸びている目抜き通り

マユアリ駅近くに、立派な別荘風の邸宅を見かけた。

別荘風の立派な邸宅。外壁と屋根の色彩のコントラストが見事だ

木陰の向こうに見える建物。ドイツビールのレーヴェンブロイの旗が見える

通りの終点で左折し、海岸に出る。砂浜にテントが見えるが、海水浴客の姿はない。9月半ばで、海水浴のシーズンは過ぎているのだ。夏の名残を感じさせる淋しい風景だ。

淋しいユールマラの海水浴場

再びヨマス通りを通って、一軒の店に立ち寄り、軽食をとる。そしてマユアリ駅に戻り、13:16発の電車に乗り、リーガに14時ごろ到着した。

リーガ駅からすぐ近くの中央市場へ向かう。石段を上がれば、そこが中央市場だ。

中央市場の賑わい

中央市場は大変な規模で、すでに建物の前の屋台の青空市場で物売りが行われている。そして大勢の人でごった返している。とりわけ中央市場の一部をなす花市場が
魅力的だ。

花市場の華やかで、色とりどりの花々と人々

市場の雑踏にやや疲れを感じて、午後5時ごろホテルに戻る。そして部屋に入って髪と体を洗い、気分もさっぱりする。7時過ぎ、A・セータというレストランで夕食をとる。明日はヴィリニュスへのバスの旅だ。

*次回は、リトアニアの首都ヴィリニュスおよび
ロシアの飛び地カリーニングラードについての見聞記をお届けします。

1999年 ロシア・バルト三国の旅(その2)

サンクト・ペテルブルク見聞記

今回はモスクワに次いで、サンクト・ペテルブルク滞在の日々についてお伝えする。

9月5日(日)曇り後晴れ
第6日(サンクト・ペテルブルク)

サンクト・ペテルブルクの市街図

前夜23時55分モスクワ発の寝台車に乗り、朝の8時20分サンクト・ペテルブルクのモスクワ駅に到着。迎えの車で町の東部、ネヴァ川の畔にあるホテル・モスクワへ移動。チェックインして部屋に入る。すぐに昨日からの旅の汚れを風呂で洗い流す。そして衣類をいくつか洗濯する。そのあと机に向かって、昨日の日記をつける。この町は18世紀の初めにピョートル大帝によって、ロシア北西部のバルト海に面した場所に作られた都だ。

ホテル・モスクワの外観

一休みした後、ホテルの向かいにあるアレクサンドル・ネフスキー修道院を散歩する。修道院の隣にあるチフヴィン墓地には、ロシアの文学者や音楽家が多く埋葬されている。ドストエフスキー、チャイコフスキー、ボロジン、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフなど、日本でも名の知られた人たちだ。

ドストエフスキーの墓

          チャイコフスキーの墓

ボロジンの墓

ムソルグスキーの墓

リムスキー・コルサコフの墓

この墓地を散策した後、修道院の大寺院に入る。中の壁面にはいたる所、イコンが飾られ、壮麗な雰囲気が漂っていた。記念の土産物に、本サイズのイコンを一つ買う(150ルーブル)。

その後ホテルに戻り、寝台車で配られた弁当を食べる。食休みした後、再び外出する。ホテルの建物の端の方にあるメトロの入り口から入って、エスカレーターで深い地下へと降りていく。そして地下鉄二つ目の「ネフスキー大通り駅」で降りる。

ネフスキー大通り、観光客を乗せた馬車

そして大通りに面して建つカザン聖堂にはいる。19世紀初めの建造という堂々たる寺院だ。

カザン聖堂

次いでネフスキー大通りの突き当りにある元老院広場を散策する。その一角に、堂々たる「聖堂の騎士像」が立っている。この町の生みの親であるピョートル大帝の雄姿だ。

青銅の騎士像(ピョートル大帝)

そして大ネヴァ川の川岸通りの一軒の屋外カフェーで一休みする。対岸にはいくつか博物館が立っている。これらの建物や宮廷橋を眺めながら、ビールを飲む。次いで川岸に沿ってトロイツキー橋まで歩く。ネヴァ川の対岸に要塞がみえる。要塞見物は後にして、いまはこちら側のマルス広場を抜け、クローヴィ聖堂脇の運河に沿って、出発点のネフスキー大通りに戻る。その後地下鉄でホテルに戻り、2階のレストランで夕食をとる。一階の食堂では団体客がいくつか円卓を囲んで会食をしている。そこでは楽団が時折演奏をしている。

9月6日(月)快晴
第7日(サンクト・ペテルブルク)

8時起床。朝食。その後部屋に戻り、昨日の日記をつける。9時半ごろ外出。メトロに乗り、一つ目の「ヴァスターニャ駅」で降りる。そして昨日の朝着いたモスクワ駅の構内に入り、改めて見て回る。次いでネフスキー大通りを西に進み、100番地の観光ツアーの出発点を捜したが、見つからず。やむなく通りを先に進み、エカテリーナ女帝像の立つアレキサンドリヤ広場で立ち止まる。この女帝はドイツ北部の領主の娘であったが、18世紀半ば、結婚したロシア皇帝を追い出して女帝になった人物なのだ。啓蒙主義を信奉し、西欧の先進文化を積極的に導入したが、その反面ポーランド分割に加わり領土を奪いとるなど、冷厳な側面ももっていた。

エカテリーナ女帝像

次いでトヴォールという名前のデパートに入る。また51番地の民芸品店で土産物の目星を付ける。次いで大通りを渡り、プーシキン像を見てから、その奥にある「ロシア博物館」に入る。とても立派な建物だ。まず13世紀ごろから15・6世紀のロシアの古い宗教画を見る。次いで18~19世紀の新しい絵画を見る。

2時半ごろ博物館を出て、近くの店で軽食をとる。その後運河にかかるアニーチコフ橋の畔から遊覧船に乗る。サンクト・ペテルブルクには、ネヴァ川にそそぐ形で何本もの運河が縦横無尽に通っている。そのため「北のヴェネチア」とも呼ばれているほどの「水の都」なのだ。私の乗った遊覧船は、フォンタンカ運河、モイカ運河と進み、ネヴァ川に出て、再び運河の元の発着点に着くのだ。その間ロシア語のガイドがしゃべり続けていた。

スパース・ナ・クラヴィー聖堂脇の運河

 スパース・ナ・クラヴィー聖堂(壁面のモザイク画に注目!) 

   

遊覧船が運河から大ネヴァ川に出たところ

遊覧船を降りてから、再びネフスキー大通りを進んで、とある土産物店に入る。そこで私の趣味のチェスの駒を捜す。いろいろ見てから鉛製の重厚な駒が見つかる。ロシア軍兵士とトルコ軍兵士が対戦するものだ。272ドルと値段は高いが、ロシア土産としては最高のものだ。その後公園の片隅のベンチの上で対局している人の姿を偶然見かけた。ロシアでは、学校の授業にもチェスがあるほどで、大のチェス好きの国民なのだ。ある時期にはチェスの世界チャンピオンやグランドマスターを輩出していたのだ。

公園のベンチでチェスの対局

その後、「ホテル・ヨーロッパ」の付属のレストラン「サトコ」で食事をして、8時過ぎホテルに戻った。

9月7日(火)快晴
第8日(サンクト・ペテルブルク)

8時ごろ起床。朝食後、今日の計画を立てる。そして旅券をホテルの受付で返してもらってから、ホテル内の劇場サービス係りのところで、相談する。その結果、今晩8時から始まる「エルミタージュ劇場」でのバレー公演と明日の夜の同じ劇場でのショーの切符を購入した。

エルミタージュ国立美術館

いったん部屋に戻り仕度を整えてから、地下鉄で市の中心部へ移動。そして徒歩で、ネヴァ川ほとりに立つ「エルミタージュ国立美術館」へ向かう。広々とした宮殿広場を突っ切り、川岸通りの入り口から入る。入場料は、外国人は250ルーブル、ロシア人は15ルーブルとなっている。ずいぶん大きな格差だが、仕方ない。案内書を手に、まず1階を見て回る。エジプト、ギリシア、ローマの彫像などが所狭しと展示してある。次いで2階に上がると、イタリア、スペイン、オランダなど西ヨーロッパの絵画が展示されている。日本語を含めて、英語、独語、仏語などのガイドに案内された観光客でいっぱいだ。ドイツとロシアの絵画を見てから、1階に降り、軽食をとる。元気を回復してから、3階に上がり19・20世紀のフランス絵画を見る。さいごに東洋美術の展示を見る。日本の美術品では、「根付(ねつけ」が目立っていた。これは煙草入れなどの紐の端につけて帯にはさみ、落ちないようにする細工物だが、欧米などでは美術品として高く評価されているのだ。東洋部門では、そのほか中国とインドの美術品が展示されている。結局この美術館には、10時40分から15時40分まで滞在していた。

さすがに疲れたが、強い西日の中をホテルへ戻り、風呂に入って元気を回復する。そして18時、再びホテルを出て、メトロで中心街へ向かう。腹がすいていたので偶然入った店が、案内書にも出ていた「文学カフェ」であることに気づく。この幸運に気分を良くして、そこのロシア料理を満喫した。20時過ぎ、エルミタージュ劇場に入る。小さな劇場だが、館内は豪華だ。中身はいくつかのバレーのさわりを、続けて見せるものだ。主として外国人向けの出し物と見えて、日本人の姿も多かった。とにかく肩の凝らない楽しい見世物だ。

9月8日(水)快晴
第9日(サンクト・ペテルブルク)

7時過ぎ起床。8時朝食。10時前ホテルを出て、メトロに乗り二つ目で乗り換え。「ゴーリカフスカヤ駅」で下車。そこはネヴァ川の向こう側で、眼前にモスクが聳えている。その建物は無視して、「ピョートル小屋博物館」へ歩いていく。そこは宮殿が完成するまでピョートル大帝が住んでいたという小さな家だ。

ピョートル小屋(小屋の外側をレンガ造りの建物が覆っている)

ピョートル大帝の書斎を窓越しに見た所

ピョートル大帝の書斎(机上のパイプは大帝が使用していたもの)

書斎の内部(ひじ掛け椅子は大帝自ら作ったもの)

大帝は若い時、ドイツ、オランダ、イギリスなど西欧の国々を見て回り、先進文化や、とりわけ造船、建築、都市計画、工芸など、物作りを自ら習得していた。小屋の中に展示されている、肘掛け椅子などは、自ら作ったものだ。

巡洋艦オーロラ号(ロシア革命の始まりを告げて冬宮殿に発砲したという)

次いでピョートル大帝の小屋近くのネヴァ川に停泊している「巡洋艦オーロラ号」に乗り込む。この船は由緒あるもので、1905年の日本海海戦に加わり、また1917年のロシア革命のとき、この地でその口火を切ったともいわれている。

巡洋艦オーロラ号の船内で

入場料は無料で、上甲板に上がると、英語を話す水平に呼び止められ、操縦室に案内された。いろいろ説明を受けた後、オーロラの名前入りの水平帽(ソ連のマーク入り)を25ドルで買わされた。高いとは思ったが、記念になると思って買ったのだ。

次いで川岸に沿って戻り、橋を渡り、「ペトロパウロフスク要塞」に入る。ただその中心に立つ聖堂は、水曜のため入れず、明日再び訪れることにする。そして小ネヴァ川にかかる「旧取引所橋」を渡り、ヴァシリエフスキー島に入る。

ヴァシリエフスキー島上のスフィンクス

      

ロストラの灯台柱
(ピンク色の柱が目立っている。小船が柱を貫いて
いる奇妙な造形物だ)

その島の岬の灯台下の野外スナックで、軽食をとる。その灯台は「ロストラの灯台柱」と呼ばれているが、ロストラとは船首の意味だそうで、1810年建造だ。次いで近くにある海軍博物館と民族学博物館を見て回る。この町と海とのつながりが興味深い。ピョートル大帝がこの町を作ってから300年の歴史だ。ロシアの近代史は、このサンクト・ペテルブルクと切っても切れない縁があるのだ。川岸を西へと進み、シュミット中尉橋を渡る。この先はやがてフィンランド湾になっているのだ。フィンランドの首都ヘルシンキは、ここからさほど離れていない。ニコライ聖堂をのぞいてから、サドーヴァヤ通りを経て、ネフスキー通りに出る。そこから地下鉄に乗りホテルに戻る。Mから2通、ファックスが届いている。リトアニアで日本人が暴行されたことが書かれている。

9月9日(木)快晴
第10日(サンクト・ペテルブルク、夜遅くタリンへ)

朝食後、M宛に詳しいロシアだよりをFax で送る。詳しい内容を伝えるには、電話よりも文章の方が良い。
その後、荷物をトランクに詰め込むのに一苦労する。土産物が増えてしまったからだ。その苦労を何とかしのいで、荷物を地下のクロークに預けて、午前11時ごろホテルを出る。昨日と同じメトロの経路をたどって、ペトロパウロフスク要塞に入る。

ペトロパウロフスク要塞の外壁(手前に大ネヴァ川)

要塞に入る橋の上を行く観光客

橋を渡って、中心部に立っている大聖堂に入る手前に、イヴァノフ門がある。もう一つのペトロフ門とともに、壮麗なたたずまいを見せている。

イヴァノフ門

ペトロフ門(壁面に双頭の鷲とレリーフ)

門をくぐって大聖堂の中に入る。その内部は豪華なシャンデリアと大理石の柱が印象的だ。

大聖堂の内部

そしてそこにはピョートル大帝以降の歴代ロシア皇帝の棺が並べてあり、壮観だ。別の一角には最後の皇帝ニコライ二世の棺がある。私が訪ねた前年の1998年に設置されたという。この皇帝は1917年の革命で命を落としている。

歴代皇帝の棺

その後付属の施設も見て歩いたが、ある場所から城壁の外に出る。川までの間は砂浜になっているが、そこからの眺望は抜群だ。

要塞の外壁とその手前の砂浜

壮麗な大聖堂の内部とは対照的な荒々しい光景だが、要塞内部にはかつて監獄があって、囚人が入れられていたという。

川向こうの要塞見物を終えてから、再びトロイツキー橋を渡ってこちら側に戻り、広々とした夏の庭園を散歩する。

夏の庭園。
広い散歩道の両側に白い彫像

その後元老院広場の近くにあるイサク聖堂へ急ぐ。午後5時前に到着し、まずは螺旋(らせん)階段を上って塔の上に出る。とても良い眺めだ。

イサク聖堂展望台からの眺め

次いでらせん階段を降り、改めて正面入り口から聖堂の内部に入る。入場料は200ルーブルと高い。聖書に基づいた数多くの壁画があるが、19世紀前半の新しいものだという。とはいえ建物は世界で3番目に大きな聖堂で、19世紀前半に建造されている。

対岸から見たイサク聖堂

すでに日も暮れてきたので、午後8時、ホテルに戻る。そしてロビーで絵葉書に3通、便りを書く。9時半に迎えの車で市の南西部のワルシャワ駅へ移動する。うら寂しい雰囲気に包まれた駅で、薄暗いプラットフォームに停車している寝台車に乗り込む。二段式ベッドの下の部分が私の指定席になっている。列車は西隣のエストニアの首都タリン行きだ。

10時25分に、列車は静かに動き出す。こちらは昼間いろいろ動き回って疲れていたので、11時ごろ就寝。そして突然激しくドアをたたく音で、起こされる。腕時計を見ると午前2時になっている。エストニアとの国境に着いたらしく、ロシア側の出国審査が始まったのだ。その審査は厳しく、まず持ち物をすべてあけるよう言われ、中のものを念入りに調べられる。こちらは寝ぼけ眼で対応せざるを得なかったが、荷物検査は無事に終わり、やれやれと思っていたら、再びドアをたたく音。今度はいきなり大きな猛犬が入り込んできて、こちらの体や荷物の周辺を嗅ぎまわってから、出ていった。薬物などの検査だったらしい。その後しばらくして3回目の検査となった。今度は二人の係員による現金の申告書の検査で、まず出国時の現金申告書を見せた後、入国時に渡されたはずの申告書を見せろという。それをどこかへ紛失したというと、急に態度が厳しくなり、その書類がなければ、出国を許さないという。しばらく押し問答をした後、手持ちの現金の1割を出せば許してやるという。結局手持ちのドルとマルクの1割をとられて、決着した。その金はきっと係員が着服したのだと、思った。

エストニア側の入国審査は問題なく、列車は再び動き出したが、このハプニングでもう眠ることはできなかった。5日間のサンクト・ペテルブルク滞在は、楽しいものであったが、最後の出国時のいやな体験が、後味の悪い思い出として残ることになった。

(次回の1999年ロシア・バルト三国の旅はその3回目で、バルト三国の北の国エストニアと真ん中の国ラトヴィアの見聞記をお伝えします)

1999年 ロシア・バルト三国の旅(その1)

はじめに

私は1999年9月から11月まで、大学の研究休暇でドイツへ行くことにした。そしてその初めに、まだ訪れたことのなかったロシアとバルト三国に短期間立ち寄った。

ロシアは、モスクワとサンクト・ペテルブルクの2都市、その後バルト三国のエストニア、ラトヴィア、リトアニアそして最後に、ロシアの飛び地カリーニングラードを見て回ったわけである。
1999年といえば、ソ連邦が崩壊してロシア共和国になってから10年足らず、エリツィン大統領の最末期、プーチン氏が登場する直前の時期であった。ソ連時代の計画経済をやめて市場経済を導入したもののうまくいかず、経済は低迷し、ロシア社会は混乱していた。それなのに、ソ連時代に冷遇されていたロシア正教を復活させて、大聖堂など教会の建物の修築に大金を投じたり、ピョートル大帝やエカテリーナ女帝の銅像を修復したりして、ロシアの伝統の復活に力を入れていた。いっぽうバルト三国は、東欧革命の結果、ソ連(ロシア)の軛(くびき)から逃れて独立国となって、新たな希望に満ち溢れていた。

およそ3週間の短い旅であり、それらの国々の表面をかすってきた程度であるが、長年私が抱いてきたドイツとの歴史的な結びつきが、どのぐらい残っているのか、という視点を一応抱いてはいた。しかし実際には、各地域での人々の日常的な生活がどのようなものか、日記に克明に記すことで、四半世紀前の状況の一端を記録に残すことができたと思う。それらは現在の状況とはかなり大きく異なっているようだ。とにかく、冷戦状況が終わって10年ぐらいの時期で、バルト三国ではそこに住む人々の気持ちに、未来への希望と喜びが満ちあふれていたように、私の短い旅でも感じられた。しかし現在これらの地域を覆っている状況は、日々の報道でも分かるように、緊迫したものになっている。

そんな時に、四半世紀前の時代を振り返ってみるのも、何かの参考にはなるかと思い、当時の見聞記をこのブログに掲載したわけである。その(1)では、まずモスクワ滞在の日々についてお伝えする。

8月31日(火)晴れ
第1日 東京-モスクワ

5時10分起床。一人で朝食をとり、7時前Mの見送りを受け、家を出る。9時前成田空港でチェックイン。出発までの時間、ナポレオン時代のロシア皇帝「アレクサンドル一世」の伝記を読んで待つ。そしてJL445便に乗って、最後尾の窓際の席に座る。機がモスクワ経由ローマ行きであることを知る。11時10分発の予定が遅れ、11時50分出発。座席の前に小型の画面があり、TV,映画、ゲームなど選択できる。
途中雲間から陸地や海が見える。シベリアの大地は、同じ姿が延々と続いている。ウラル山脈は、今回も雲で隠れて見えない。9時間の飛行の後、現地時間の午後3時50分、モスクワ空港に着陸。モスクワの気温は14度。東京の31度とは雲泥の差。シェレメチェボ空港に降り立つ前、モスクワ近郊の眺めは、樹々の緑と畑と家々が織りなす景色が美しかった。
しかし空港自体は、古く、みすぼらしい。出国審査場も狭く、混雑しており、審査に時間がかかった。そのため預けた荷物は、受取所にすでに出ていた。いっぽう税関申告は簡単に済み、到着時刻表の下で、出迎えの男性がすぐに見つかり、ひと安心。5時、彼の車に乗り、ホテルへ向かう。途中の道路は工事中で汚い。車も多く、ほこりっぽい。ほぼ1時間かかって、クレムリンのすぐ前のホテル「インツーリスト」に到着。カウンターでヴァウチャー(引換券)を渡し、パスポートも預け、部屋のカギとカードを受け取る。しかしマニュアルに書いてあったジェジュールナヤという女性はいず、ボーイさんが部屋まで荷物を運んでくれ、2ドル渡す。ホテルはTuerskaya(トヴェルスカヤ)という名前の目抜通りに面した、国連ビルのような高層ビルだ。

今回泊まったホテル「インツーリスト」

部屋に入り、シャワー浴びてから、フロントに降り、100ドル分(2450ルーブル)両替する。

モスクワの中心部の地図

6時半ごろになっていたが、まだ明るいので、近所へ散歩に出る。ホテル周辺はまさにモスクワの中心街で、大勢の人々でごった返していた。トヴェルスカヤ通りは道幅が広く、車も多く、地下道を通って反対側に出る。人の多さと車の多さ、そして道路工事などで、混とんとした活気に満ちていた。偶然メトロの入り口が見つかり、階段を下りてみたが、ロシア語の表示だけなので、すぐに電車に乗る気持ちにはなれなかった。(行き先の停留所の名前が分からないので)

地下鉄駅の入り口
(左手のMの表示はメトロのこと。
マクドナルドのMは形が少し違う)

モスクワ市内の「マクドナルド」
(メトロのMとの形の違いに注目されたい)

そのため、近くにあった有名なグム百貨店に入る。3階建て吹き抜けで、2~3重の通路が通り、中央に噴水。豪華そのものだ。

豪華なグム百貨店の内部

また少し先にはボリショイ劇場など劇場が多く、そうした雰囲気が漂っている。そしてプーシキン広場辺りまで進む。そこの地下街は商店街になっていて、熱気に満ちていた。9時に、ホテルに接続したピッツェリアに入り、ピッツァと赤ワインの食事をとる。そして10時に部屋に戻った。

9月1日(水)晴れたり、曇ったり
第2日 モスクワ

夜中に目が覚めたが、7時に起床。朝食に行く。ヴァイキング方式だ。日本人の姿も多い。朝の仕度を済ませてから、9時ごろホテルを出る。快晴だが、空気はひんやりしている。チョッキに上着を着て、ちょうどよい。地下道を通って、マネージ広場の斜め向かいに出る。「赤の広場」は半分閉鎖されている。次いで広場に面した「聖ヴァシリー寺院」の前に出る。9本のネギ坊主は、まさにロシアそのものといった感じだ。    

聖ヴァシリー寺院を前にして、私が立っている

次いでクレムリンの外側を、モスクワ川に沿って歩いて、トロイツカヤ塔のところからクレムリン内部に入る。    

トロイツカヤ塔(クレムリンへの一般客の入り口)

すぐ左手の武器庫に入り、入場料を払って内部に進む。大勢のグループ客がガイドに案内されて動いている。二つの日本語ガイドのグループに加わって、説明を聞く。そこは豪華絢爛たるツァーリ(ロシア皇帝)の宝物庫なのだ。クレムリンはもともとロシア皇帝の宮殿だったのだが、革命後ソ連政府が奪い取ったものだ。

クレムリン内の武器庫(今は博物館)の内部

同武器庫での日本語ガイドと日本人観光客

この武器庫を出てから、様々な寺院が密集している地区を見て回る。それらの中にも内部が博物館になっているところもあった。こうしてクレムリンの内部を午前10時から午後1時半までかかって、見て歩いたわけである。

クレムリン内のソボルナヤ広場と観光客の群れ

クレムリン内部にある広場での観光客の姿、その前に私が立っている。

クレムリン外壁。その手前がレーニン廟

クレムリンのトロイツカヤ塔の外は公園になっている。そしてその公園からマネージ広場にかけて、見事に整備されている。また屋根が付いたパサージュ風の高級商店街はとても魅力的だった。

クレムリン近くのマネージ広場
(中央部分の下が大きなショッピング・モール)

その後いったんホテルに戻って、小休止。そして6時前にボリショイ劇場に行き、ダフ屋のおばさんから、350ルーブルで当日券を入手して、グリンカのオペラ
“Ivan Susanin” を見られたのは、幸運だった。ちなみに1999年9月現在のレートは、1ドル=25ルーブルだったので、当日券350ルーブルは14ドルである。

9月2日(木)晴れ
第3日 モスクワ

7時過ぎ起床。朝食後、昨日の日記をつけ、今日の行動計画を立てる。9時半ごろ、ホテルを出て、最寄りのM(地下鉄)の駅に入った。 そして長いエスカレーターを降りて、プラットフォームにたどり着く。料金は全線4ルーブルだ。

地下鉄駅構内の長いエスカレーター

電車に乗り、3つ目の駅で降りる。持参した日本語のモスクワ市内の地図を頼りに、見当をつけて、目的のラトヴィア大使館を捜したのだが、なかなか見つからない。5~6人に尋ねた末、ようやくラトヴィア大使館の新しい建物にたどり着く。どうしてその建物を捜したのかというと、この後旅行するラトヴィアに入国するためのビザが、日本では取れなかったからだ(当時日本とラトヴィアとは外交関係がまだ結ばれていなかったので)。

ラトヴィア大使館(領事部)の入り口の銘板

モスクワのラトヴィア大使館には、何とかたどり着いたのだが、そこで英語を話す人を見つけるのに、また一苦労した。その後申請書と自分が映った写真、旅券、及び手数料の60ドルを渡して、何とか手続きが済んだ。しかしラトヴィア入国のためのビザは、午後3時に発給されるというので、午前11時から午後3時まで、近所を散歩して過ごす。しかし方向音痴のせいか、歩いているうちに地図では確認できない所をうろついた挙句、何とか先ほどのラトヴィア領事館に戻ることができ、こうしてラトヴィアへの入国ビザを取得することができた。

そして往路と同じ地下鉄に乗って、3時40分ごろ、ホテルに戻った。快晴の強い日差しの中を歩いたので、汗をびっしょりかいた。部屋に入って、シャワーを浴びて一休みする。そして東京のMへ電話する。

それから5時ごろ再び外出。今度はトヴェルスカヤ通りを一路、北西方向のベラルーシ駅まで歩く。人と車は多いが、さわやかな空気と日差しで気分は良い。通りの左側を進み、プーシキン広場で一休みした。

プーシキン広場前の道路

広場の一角に立つ詩人プーシキンの銅像

その後、さらにベラルーシ駅へ向かったが、その途中、いわゆるスターリン様式の巨大な高層ビルが見えた。この形のビルは、遠くからよく見えるので目印にはなるが、いくつもあって、しかもどれも似たり寄ったりの形をしているので、道に迷ったときは、かえって迷いのもとになる。

スターリン様式の建物

それはともかく、さらにベラルーシ駅へと向かって歩いていく。

ベラルーシ駅(モスクワ市の西北にある)

ベラルーシ駅横手にあるノミの市

ベラルーシ駅近くの日本料理店

モスクワ市の中心街の周囲には、行き先別に、北西にベラルーシ駅、南西にキエフ駅そして北東にレニングラード駅という風に、3つの大きなターミナル駅がある。ロシア北方のレニングラードは、1991年のソ連崩壊に伴って、市名が18世紀以来のもともとのサンクト・ペテルブルクに戻ったが、駅名はそのままに残っているのだ。ちなみにレニングラードは、1917年の革命の後、指導者レーニンの名前にちなんでつけられたものだ。

ところで、ベラルーシ駅の周辺は3車線の大通りで、薄汚れた車でいっぱい。車優先の感じだが、歩行者もその間を巧みにわたっている。また駅の近くにノミの市もあり、庶民が集まる地域のようだ。日の丸のついた看板の日本料理店も見かけた。ロシア語の看板の文字が読めないのが、残念だ。

こうして市の中心街の北西部を歩き回って、8時半ごろ再びホテルにもどった。腹がすいていたので、3階のロシア・レストランで夕食をとる。楽団の演奏付きで、思いもかけず安かった。

9月3日(金)快晴
第4日 モスクワ

7時半起床。朝食後、昨日の日記をつける。その後、今日の行動計画として、中心部の西側を歩くことに決める。そして9時半ごろホテルを出る。さわやかな晴天。クレムリンの西側にあるモスクワ大学旧館のわきを通り過ぎ、ヴォズドヴィジェンカ通りを進む。この通りはやがて新アルバート通りという、幅の広いモダンな高層住宅が立ち並ぶ道になる。これらは旧ソ連時代に、社会主義成功の産物として建てられたという。

新アルバート通り
(旧カリーニン通り)

その先のモスクワ川に架かるカリーニン橋の周辺に、ホワイトハウス(ロシア連邦議会ビル)、モスクワ市役所、ウクライナホテルと、3っつの大きな建物がある。

新アルバート通りからウクライナ・ホテルを望む

左手:ウクライナ・ホテル、右手:モスクワ市役所

カリーニン橋 左手:ロシア連邦議会ビル、
カリーニン橋 右手:モスクワ市役所

橋を渡るとクトゥーゾフ大通りとなる。そしてかなり歩いた末に大工事中の鉄道駅を過ぎ、ようやく目指す凱旋門(1812年の対ナポレオン戦争の勝利を記念しての)に着く。ただその手前のボロジノ戦闘パノラマ館は休館だった。トルストイの『戦争と平和』にも出てくるが、クトゥーゾフ将軍は、ボロジノの闘いでナポレオン軍を破った祖国の英雄なのだ。このパノラマ館に入りたかったのだが、明日また来ることにする。

その日はやむなくすこし戻り、メトロに乗って川を渡り、環状道路わきに着く。既に1時半過ぎになっていたので、近くのレストランに入り昼食をとる。その後歩行者天国になっている繁華なアルバート通りを散歩する。両側にレストラン、カフェなどが立ち並んでいる。そのあたりの一軒の両替所で、100ドル(2560ルーブル)を両替する。率はホテルより良い。

次いで南へ向かって歩き、「トルストイ博物館」に入る。その時、参観者は私一人。若いころから私は熱心なトルストイのファンで、『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』、『復活』、『セヴァストポリ』、『イワンの馬鹿』など主な作品はよく読んだものだ。

「トルストイ博物館」の入り口

館内をゆっくり見終わってから、本日は外歩きは早めに切り上げて、メトロに乗り、6時前にホテルに戻る。シャワーを浴び疲れをとってから、8時前に近くのマクドナルドで軽食をとり、すぐにホテルに帰る。今日になって初めて部屋のテレビをつけ、一般の番組を見る。いくつかチャンネルがある。ニュースは、ロシア語はわからないものの、映像からテーマぐらいは想像できる。またロビーで、ドイツ語の新聞 ”Moskauer  Deutsche  Zeitung” を入手して、部屋でゆっくり読む。私にとって興味ある記事がたくさん掲載されている。

9月4日(土)曇り後快晴
第5日 昼間モスクワ、夜遅くサンクト・ペテルブルクへ

7時ごろ起床。外は曇っている。朝食後、昨日の日記をつける。9時過ぎ、荷物をまとめてチェックアウト。トランクとショルダーを預けて、ホテルをでる。最寄りのメトロ駅から一度乗り換えて、市の西南にあるキエフ駅で下車。地上に出ると、まるで終戦後の上野駅の感じで、雑踏と混とんのカオスの雰囲気だ。外国製のたばこ販売の屋台が無数に軒を連ねていて、壮観だ。

キエフ駅(建物は立派だが、内部も周辺も人々の雑踏がすさまじい)

キエフ駅周辺の車の雑踏

キエフ駅周辺のマーケット
(外国製たばこ販売店が無数にある)

その後、昨日閉館していた「ボロジノ戦闘パノラマ館」へ、タクシーで駆けつける。手前に英雄クトゥーゾフ将軍の騎馬像、背後にボロジノ戦闘パノラマ館がある。

ボロジノ戦闘(1812年)パノラマ館と
クトゥーゾフ将軍の騎馬像

パノラマ館をざっと見てから、歩いて再びキエフ駅近くまで戻って、付近の「マクドナルド」店で昼食をとる。次いでタクシーでヴァラビョーヴィ丘(雀が丘)へ移動する。朝のうち曇っていたが、昼になると快晴になる。土曜日のせいか、大勢の人出だ。数多くの新婚カップルと関係者の姿が目立つ。マトリョーシカ人形は売り物のお土産だろう。

新婚カップルの両側に、
無数のマトリョーシカ人形が並んでいる

そこの展望台からは、眼下の芝生に遊ぶ人々の姿。そしてはるか遠くに、モスクワ川の先に市内の建物が見える。また背後にはモスクワ大学の威容が聳えている。

雀が丘の上のモスクワ大学

大学に向かって公園の中をしばらく歩いていく。そして天気が良いので、しばらくベンチで休憩する。そのあたりは次第に人影が少なくなっている。

モスクワ大学の前の公園

しばらく休んでから3時ごろ、こんどは丘の斜面を歩いて川端へ出る。そしてそこから遊覧船に乗り、クレムリンの先で下船。

遊覧船の上からの白色の橋の眺め

クレムリン前の赤の広場に出ると、聖ワシリー寺院のわきの仮設の舞台が、踊りと歌で賑わっている。そしてそれを見る大勢の観客と警備の警官の姿も見られる。土曜のためか、その一帯は歩行者天国になっていて、スピーカーから流れる大音響と人込みで、辺りは大変なもの。私が泊まったホテル前のトヴェルスカヤ通りも人でいっぱいだ。少し離れた所にあるイタリア料理店で、ゆっくり夕食をとる。そしてホテルに預けた荷物を受け取って、午後10時40分、迎えの車で、クレムリンから見て東北にあるレニングラード駅へと向かう。その後午後11時55分発の寝台車に乗り、次の目的地サンクト・ペテルブルクへ移動する。

(サンクト・ペテルブルクでの見聞記については、次回のブログ「ロシア・バルト三国の旅 その2」でご紹介します。)

ドイツ近代出版史(10)第二次世界大戦後1945〜(その3)

第4章 東ドイツにおける出版事情

(1)社会主義社会における出版の役割

東ドイツにおいては、書籍や出版活動は、当初から「社会主義社会の建設に奉仕すべきもの」とされていた。これに関連して、東ドイツの研究者のブルーノ・ハイトは1972年に、その『ドイツ民主共和国における書物の役割について』の中で、次のように述べている。
「書物はそもそも初めから社会主義社会の建設を手助けしてきた。書物はソビエト連邦ならびにその他の社会主義諸国との友好協力関係の促進に寄与してきた。書物は労働者や協同組合所属農民が、文化や芸術を自分のものにするのを手助けしてきた。書物は資本主義と社会主義の間の精神的な大論争に答えを与えた。そして今日、書物はドイツ民主共和国の発展した社会主義社会の形成に、寄与しているのだ。書物は社会主義的態度および信念の形成に当たって、何ものにも代えがたく、しかもその信念こそは社会主義の勝利のために、重要にして不可欠な前提条件なのである」

このように東ドイツでは、書物は一つの明確な目標を達成するための手段であると規定され、その出版活動もこうした前提条件の下で、はじめから独自の発展を見せてきたわけである。そしてこの観点から、何はともあれマルクス・レーニン主義の古典作品が、さまざまな版にわたって出版されたのである。さらにソビエト文学とならんで、反ファシズム・民主主義的な作家の作品が、民主的ドイツ文化の建設に当たって、大きな精神的な力となるものとされた。またこうした意味合いから、さまざまな形での読書会や作家との対話集会、文学的討論会などが奨励された。毎年「書籍週間」や「児童文学の日」が定められ、労働者の祭典などには「文学プロパガンダ的催し」も開かれたりした。

先にも述べたように「書物は社会主義社会の建設に奉仕すべきもの」との至上命題が、出されたわけであるが、こうした原則は再三再四、体制側の代表によって、出版関係者に向かって呼びかけられた。出版界をその管轄下に置いていた文化省のJ・R・ベッヒャー大臣は、1953年に出版関係者を前にして、こう語った。「出版者も文化政策の推進者であり、自分が携わっている分野において、文化政策を推進していかなければならないのだ」。またウルブリヒト社会主義統一党第一書記は、1959年に開かれた作家会議に出席して、社会主義的社会秩序のなかでの作家の役割について、次のような演説を行った。
「作家は、社会生活のただなかに身を置き、社会生活の発展に対して自ら協力するときにのみ、その任務を果たすことができる。・・・われわれの文学・芸術は、ドイツの最良の人道主義的伝統の維持ならびにドイツ民主共和国における社会主義の勝利に奉仕すべきものである」

また出版社の活動については、1946年4月に開かれた社会主義統一党の創立大会の決議の中で規定され、その後1963年の第6回党大会で改めて確認されている。それはドイツ民主共和国における社会主義の全面的かつ完全な建設計画の一環として、組み込まれているものである。そしてその国法上の基盤は憲法にあった。1968年4月に改定された東ドイツの新憲法の第25条には次のように書かれている。
「ドイツ民主共和国の全ての市民は、教育を受ける平等の権利を有する。・・・全ての市民は、文化的生活に関与する権利を有する」。また第17条には「学問研究およびその知識の応用は、社会主義社会の根本的基礎であり、国家によってあらゆる面にわたって奨励される」と書かれており、さらに第18条では「働く者の文化的生活の促進および国民的文化遺産と世界文化の保護」がことさら強調されている。

(2)東ドイツ出版界の変遷

出版界の概況

社会主義国の東ドイツにとって出版は、前節でみたように特別の役割を担わされていたわけであるが、その40数年にわたる歴史をこれから概観することにしよう。ただし史料的制約もあって、西ドイツの場合に比べて、ごく簡単なものにならざるをえない事を、初めにお断りしておく。ちなみに東ドイツ(ドイツ民主共和国)は1949年に発足し、1990年に西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に吸収合併された形で消滅した。とはいえ1945年5月にナチスドイツが敗北し、ドイツの東北部をソ連が占領統治し始めた時点から、その出版界はのちに西ドイツとなる西側地域とは、まったく違った形で始まったのだ。

さて1949年に生まれた東ドイツ(ドイツ民主共和国)の出版界は文化省の管轄下にあり、主な書籍出版社と雑誌出版社は同省から認可を受けて営業していた。認可を受けていた出版社の数は、1970年代半ばの時点で、全部で78あったが、この数は1985年になっても変わっていない。これらの出版社は専門分野別に分けられており、21が政治・社会科学・自然科学文献の、4が医学・生理学文献の、15がその他の専門文献及び教科書の、3が地図の、6が児童及び青少年向け書籍の、16が文芸書の、3が美術書の、7が音楽書及び楽譜の、そして3が宗教書の出版社である。

いっぽう経営形態別にこれらの出版社を分類すると、国営が34、社会団体所有のものが22、国家関与企業が5、そして個人所有のものが17となっている。このほか国家の認可を受けていない小規模の出版社が20ほどあったが、そこでは暦、絵本、塗り絵帳、職業指導書、教育用ゲーム道具などが取り扱われていた。

東ドイツの出版社の中には、ライプツィッヒの伝統的な出版社もあれば、1945年以後に新たに創立された出版社もあった。しかし首都の東ベルリンには32もの出版社があつまり、東ドイツ全体の出版点数のほぼ三分の二を出版していたのである。その一方ライプツィッヒには38の出版社が集中し、数からいえば東ベルリンを凌駕していたが、出版点数は全体の23%にとどまっていた。とはいえ東ドイツの出版社は、ほとんどこの二つの都会に集中していたわけである。

それでは書籍生産の規模はどれぐらいだったのであろうか。そのことを示しているのが次の表である。

年間発行点数 年間総発行部数 一点当たりの平均部数
1949 1,998 3340万部 16,700
1954 5,096 7000 万部 13,800
1959 5,631 8880万部 15,783
1964 5,604 9360万部 16,723
1969 5,169 11400万部 22,050
1985 6,471 14460万部 22,350

(出典:H.Widmann,  Geschichte des  Buchhanndels, 1975.S.212
1985年度だけは、Lexikon des gesamten  Buchwesens.II, 1989, S.289)

それでは次に東ドイツ出版界の変遷を、1945年から1970年代まで(史料的制約から)を中心に、順次たどってみることにしよう。

初期の建設期(1945-1949)

この時期はまだ東ドイツ(ドイツ民主共和国)が建国されておらず、ソ連の占領時代に相当するが、なにごとによらずソ連占領軍政府の命令が絶対的な時代であった。まずソ連軍政府布令第二号によって民主主義的な諸政党が許可されたが、その筆頭に立ったドイツ共産党は、1945年6月国民に向かって、ある呼びかけを行った。その中で、ヒトラー体制の残骸の完全な一掃に次いで、すべての学校および教育施設における真に民主的で進歩的で自由な精神の保持と、学問研究及び芸術創造の自由が図られるべきことが謳われた。

そしてこの呼びかけに基づいて「ドイツの民主的再生のための文化連盟」というものが設立された。そしてこの組織の下に、出版関係では、何はさておきファシズム的思想の所産を含んでいるような著作物は出版しないように、との路線が示された。そのうえで新しい理念に合致した教科書を発行し、第三帝国時代に追放されたり、弾圧を受けたりした人の著作物の名誉回復を図ることが指示された。そしてさらに学問的生活の再建のために必要な専門書や専門文献の出版が促進されるべきことも指示された。その際出版界の再建のために、ソ連占領軍政府の文化担当官が援助の手を差しのべた。

かくして早くも1945年夏に、新しい出版社がいくつか設立されたのである。まずドイツ共産党の出版社として、「新路線出版社」が作られたが、それから数か月後には「ディーツ出版社」(ベルリン)が生まれた。また教科書出版社としてライプツィッヒに「人民と知識」が活動を始めた。さらに文化大臣ヨハネス・ベッヒャーの後押しで、「アウフバウ(建設)出版社」(ベルリンおよびヴァイマル)が設立されたが、この出版社は設立三年後には150点の書籍を刊行していた。そこにはJ・R・ベッヒャーやアンナ・ゼーガースなどの当時の現存作家の作品のほかに、ゲーテ、シラー、ハイネ、シュトルム、ケラーなどの古典作品も含まれていた。こうして同出版社は、東ドイツの文芸書出版社の筆頭の地位を占めるようになったのである。

これに続く数年の間に、さらに一連の出版社が設立されていった。学術出版社として「アカデミー出版社」(ベルリン)が作られたあと、1948年に「国民出版社」が誕生した。またマルクス・レーニン主義及びロシア・ソ連の偉大な作家の作品を刊行する出版社として「ソ連軍事管理出版社」及び「モスクワ外国文学出版社」が、1946~1949/50年にかけて、存在感を示していた。

いっぽう1946年に、国民教育担当官庁に出版部門及び出版担当の「文化諮問委員会」が設けられた。そして出版社の再認可、出版物の許諾申請、出版編集計画などの審査業務が、この「文化諮問委員会」に委ねられた。その結果、百年以上の歴史を有したものも含めて、たくさんの出版社が1946~47年にかけて、「国営企業」として引き継がれた。その主なものを挙げると、ライプツィッヒに本拠を置いていた「国営文献目録社」(1826年創立)、「国営ブロックハウス出版社」(1805年創立)、「国営ブライトコップ・ヘルテル音楽出版社」(1719年創立)、「トイプナー出版協会」(1811年創立)、「フィリップ・レクラム・ジュニア出版社」(1828年創立)、「インゼル出版社アントン・キッペンベルク」(1899年創立)、そしてハレに本拠を置いていた「国営マックス・ニーマイヤー出版社」(1869年創立)などである。結局1949年までに全部で160の出版社に営業許可がおりたが、その後はこの数はかなり減少して、前述のとおり78となった。

いっぽう「ドイツ書籍商取引所組合」(ライプツィヒ)に対しては、ソ連軍事政府によって、1946年4月にその活動再開が許可された。これによって同組合が発行してきた『ドイツ書籍取引所会報』と『全国図書目録』の発行も、再び軌道に乗るようになった。出版社の活動に対するその後の指針として、第一次二か年計画(1949/50)が定められ、その詳細については「ドイツの学術文化の保持発展に関する指令」(1949年3月)によることとされた。また専門技術者用の文献を発行するところとして「専門書出版社」が1949年にライプツィッヒに設立され、さらに児童書発行所として「児童書出版社」が同じ年に設立された。

ここでこの時期の書籍販売面に目を向けることにしよう。第二次大戦直後は、この分野ではなお著しい混乱が支配していたが、やがて1946年9月になって、ソ連軍事政府の命令によって、「ファシズム関係図書の絶滅」が図られることになった。その前の1945年8月~1946年8月の時期には、ソ連占領地域では、書物960万冊、小冊子180万冊そして雑誌350万冊が発行されていたのだ。

また書籍取引の中心的な機関として1946年に、「ライプツィッヒ出版物取次・卸売りセンター」が設立された。そして書籍販売店はこのセンターを通じて、出版社と取引をし、代金の清算を行うことになった。書籍販売店の営業許可は、担当官庁から下されることになった。また初期の書物不足から、大学や専門学校に特別な役割が課された。さらに貸本店の在庫図書のためにも、相応の措置が取られねばならなかった。この時期の終わりに、書店は1600店、書籍販売所は1300か所を数えた。

国家建設後の発展の時期(1949-1955)

1949年5月、西側三占領地域からドイツ連邦共和国(西ドイツ)が誕生したが、その後を追うようにして同年10月7日、ソ連占領地域からドイツ民主共和国(東ドイツ)が生まれた。その直後の11月23日、同国初代のグローテヴォール首相は、「人間精神の成果をすべての人々の手に届くようにし、加えて真に人道的な文化を発展させることこそが、ドイツの精神労働者の特別な任務である」と語っている。ここでは学者、知識人の役割を説いたのであるが、翌1950年3月に出された「ドイツ人民の先進民主文化の発展ならびにインテリの労働・生活条件のいっそうの改善のための指令」の中で、とりわけ学術出版社及び図書館が学術書を支援すべきことが謳われている。また同指令第6条第4項では、ドイツ民主共和国の外部で出版される文献や科学技術研究に必要な文献を調達するために、センターが設立さるべきことが記されている。さらに同じ指令の第10条第1項には、働く人民の文化水準向上のために、過去及び現在の最も進歩的で最良の文化作品を、企業や地方で働く創造的な人々に与えるべきことが定められている。
次いで1950年7月に開かれた政権党である社会主義統一党の第3回大会で、出版界にとって重要な意味を持った方針が打ち出された。つまり1951-55年の五か年計画で、出版の規模を二倍にすることが定められたのである。

いっぽう「進歩的著作物の発展に関する指令」に基づいて、書籍出版のための新しい役所が設立された。この役所の役割は、第一に中央の調整と指導によって、あらゆる分野の著作物を振興発展させること。第二に専門家の鑑定によって出版物の質の向上を図ること。第三に書籍及び雑誌出版社の設立を認可すること。第四に出版編集作業に対して絶えず助言を与えること。そして第五に書籍及び雑誌出版のために用紙を分配することなどであった。

この役所は1951年11月に、ベルリンで第一回の出版社会議を開いた。その後1952年10月にライプツィッヒで第二回会議、そして1953年11月に同じ場所で第三回会議を開催した。また1952年の社会主義統一党大会で、文化大臣ヨハネス・ベッヒャーは、「知識人と労働者の連携の緊密化」を訴えた。そして1953年5月の党中央委員会政治局の決議の中で、文芸批評、図書目録、進歩的書物の宣伝の促進が謳われた。その具体的方策として、例えば地域・企業新聞を含めたあらゆる新聞に、新刊書の書評欄を設けることが訴えられた。

書籍販売面ではこの時期、進歩的著作物を広く人々に供給するという意味合いで、国営の「人民書籍販売」という概念がしきりに宣伝された(1951年8月の指令)。その一方でなお私営の書店も存続していたが、それらの書店は「民主的立法の基盤の上に立つよう」にと、指示がなされた。1952年になると先の「ライプツィッヒ出版物取次・卸売りセンター」の機能が拡大された。つまり現代的機能を備えた社会主義的な書籍取次業へと拡充されたのである。そして対外的な書籍販売面では、1953年10月にまったく新しい組織として、「ドイツ書籍輸出入有限会社ライプツィッヒ」が設立された。

社会主義的出版体制確立の時期(1956-1961)

ソ連共産党第20回大会が開かれた数週間後の1956年春、東ドイツ社会主義統一党の第3回大会がベルリンで開催され、そこで第二次五か年計画(1956-60)が策定された。この計画が出版の分野にもたらされた結果として、さらなる闘争のために「高度に有能な専門家」が必要であることが明らかとなった。そして西側からの専門文献の輸入に頼らなくてもやっていけるために、大学や専門学校の教科書の出版を拡充することが要請された。

翌1957年4月、ライプツィッヒで社会主義諸国の出版関係者の会議が開かれたが、これはお互いの情報交換や緊密な協力関係を作り出すうえで、大きな役割を果たした。同様の会議は、それに続く数年間続けられた。そしてこれらの会議を通じて、修正主義的な動きの浮上は断固として抑制された。そうした点で出版社の活動が不十分な場合には、その都度自分たちの役割の重大さを認識するよう、諭された。

こうした基本方針のもとに、1958年7月には文化省の内部に「著作・出版部」が設けられた。さらに新たに「国営出版社連合」という組織が作られ、文化省の下に入ることとなった。これとは別に著作・出版活動のイデオロギー的政治的基本計画を策定するために、文化省の中に25の著作・出版作業部会(出版主、編集員、学者、国家及び社会団体の代表から構成)が設けられた。

いっぽう各政党も独自の出版社を持つようになった。こうして1958年に自由民主党の出版社として「デア・モルゲン」出版社が活動を開始した。キリスト教民主同盟の「ウニオン出版社」はこれよりずっと早く、1951年に設立されていた。

この時期1959年9月、政権党の社会主義統一党の第一書記ウルブリヒトは、その「平和の7年計画」と題する人民議会での演説で、次のように語った。「ポピュラーサイエンスの著作物、学術専門文献、外国語文献の出版を大幅に拡充し、優れた図書を廉価に大衆に供給することが、切に望まれる」。

ベルリンの壁構築(1961年)以後の動き

1961年8月13日、東ドイツ政府は西ベルリンを遮断するために、いわゆる ベルリンの壁を構築した。そしてこれによって東西ドイツの分断が決定的な段階を迎えた。これに伴い、それまでなお部分的には西ドイツから取り入れていた教科書や専門文献に依存することが、全面的に拒絶されることになった。そして部分的にはソ連の教科書をドイツ語に翻訳して、学校で使用させることも始まった。

このようにして国家としても東ドイツは西ドイツとは別の独立国家であり、文化面でも社会主義的な独自の文化を有していることを、東ドイツ政府は強調するようになっていった。その結果、1963年6月には「西ドイツ、西ベルリン及び資本主義的外国からの著作物の受け入れへの特別措置に関する指令」が出されることになった。具体的には、これらの著作物を輸入しようとする者は、文化省内部の「書籍出版販売担当部門」に申請して、特別許可を得なくてはならなくなったのである。この措置によって、東ドイツ政府当局の気に入らない西側著作物は、いつでも締め出すことができるようになった。
いっぽう1963年1月には、閣僚評議会の決定に従って、「国営ドイツ中央出版社」が設立された。この出版社は、一般公文書及び人民議会、国家評議会、閣僚評議会その他の中央国家機関の文書、並びに国法問題に関する学術文献を発行することを、その任務としていた。

書籍販売面に目を向けると、1963年1月に文化省内部に作られた「書籍出版販売部門」が、書籍販売に従事する人々の組織化に乗り出すようになってきた。つまり国営の「人民書籍販売」に属していない私営の個人書店を、社会主義社会の建設のために、計画的に組み込んでいく方策がとられたのである。そして1966年5月には、そのための法的な根拠として「委託販売指令」が出された。この指令に基づいて、人民書籍販売と個人書店の間に<委託販売協定>が結ばれたが、その第1条第4項には次のように記されている。

「書籍、小冊子、楽譜、レコード及び複製品を継続的に人々に供給するために、そしてまた個人書店を社会主義の広範な建設へと組み込むために、両者の合意のもとに、人民書籍販売と個人書店の間で、当委託販売協定を締結する」

また第3条第1項及び第2項は、次のように記している。
「当委託販売協定によって、人民書籍販売(及びその支店)は、現にある売買用の在庫品を、人民所有(つまり国家所有)に引き継ぎ、その在庫を委託販売者(つまり従来の個人小売業者)に、今後の書籍販売業務の基礎として与える。商品在庫の区分は、個々の商品グループに従って、その勢力範囲に応じて確定される」

さらに第3条第4項には、次のように記されている。
「最終消費者(本の買い手)への販売は、支店(人民書籍販売の)の勘定書によって、委託販売者の名において行われる。当委託販売協定の締結に基づき、委託販売者は自分の勘定書によって行ってはならない」

第4条第1項には「引き渡された商品への保証として委託販売者は、平均在庫商品の最終消費者価格の33・3%相当の保証金を支払わねばならない」と書かれている。そしその見返りとして第8条第1項には「委託販売者はその業務に対して、売り上げの・・%の手数料を受け取るものとする」の記されている。

また第8条第3項には、「委託販売者には毎月、以下の経費つまり家賃、光熱費、クリーニング代、暖房費、店の設備の減価償却費が、あとで返済される」と記されている。さらに第10条第1項で「委託販売者及びその従業員に対する休暇は、法によてって定めるところとする」とも書かれている。

以上「委託販売協定」の条文をかなり詳しく紹介したが、これにょって東ドイツの書籍小売販売人が、どのような形で国家の傘下に組み込まれていったのか、そのおよその実情がお分かりいただけたことと思う。

こうした経過を経て、個人の書籍小売商は地域の「人民書籍販売」と結びつけられたのだが、1980年代末の時点(ドイツ民主共和国の最終の時期)で、書籍販売店の状況がどうなっていたのか、次に見ることにしよう。この時点で国営の人民書籍販売には、大小700の書店が属していた。そこには地域の重要都市にある14の「本の家」、250の郡の書店、280の都市書店ならびに外国書、楽譜、古書の専門店が含まれている。

このほか他の所有形態の書店及び古書店が380あり、そのうち100以上が委託販売協定を通じて、地域の人民書籍販売と結びついていた。「人民書籍販売」の中央管理センターの所在地は、ライプツィッヒであった。このセンターの下に、中央古書センター及び通信書籍販売業としての「ライプツィッヒ本の家」も入っていた。ここは東ドイツ及び他の社会主義国の出版社の出版物を、引き渡す業務を担当していた。その宣伝広報誌である「ブーフクーリエ」を通じて、一般文芸書、ポピュラーサイエンスの本、児童・青少年向け図書、そして学術書の一部の目録が、読者に提供された。さらに50万人にのぼる顧客の住所氏名を載せた顧客カードに基づいて、顧客の関心分野に応じて、それぞれの図書に関する情報が送られた。
また人民書籍販売の支店や書籍販売所が存在しない地域の住民に対しては、「注文仲介業者」が5%の手数料でサービスを行っていた。これら出版物の普及宣伝措置は、1969年に制定された「出版物販売に対する指令」に基づいて行われていたものである。

(3)東ドイツの図書館ほか

1913年にライプツィッヒに設立されたドイツの国立図書館「ドイチェ・ビュッヘライ」は、第二次世界大戦中さしたる被害を受けず、戦後まもなくその活動を再開することができた。また1915年から続いてきた全国図書目録「ドイチェ・ナチオナールビブリオグラフィー」も、大戦末期から終戦直後にかけての混乱期にもかかわらず、1946年8月にはその仕事を再開した。こうして図書目録作成の作業は順調に進捗していった。当時東ドイツ地区はソ連軍の占領下にあったため、1946年12月には、ソ連占領軍の布告の形で、「ドイチェ・ビュッヘライ」への献本義務がソ連占領地域及びベルリンのソ連地区の出版社に対して伝えられた。また1950年には、「ドイツ書籍・著作博物館」が、「ドイチェ・ビュッヘライ」に併合された。そしてこの新しい部門は、1960年になって、以前「書籍商組合」の付属図書館が管理していた業務を受け継ぐことになった。

さらに「ドイチェ・ビュッヘライ」は第二次世界大戦中に壊滅的な打撃を受けた『出版社・諸機関カタログ』再編集の仕事も順次行うようになった。これは出版業界全体にとって実用的な価値があったばかりではなく、出版史の研究上も大きな価値を持つものであった。つまりこれは出版社や出版関係諸機関の単なるリストにとどまらず、それらの活動を歴史的に整理分類して叙述したものであるからである。1972年夏には1913年(「ドイチェ・ビュッヘライ」創立の年)までの編集が完了し、その後も1913年以降の分が続けられている。

以上述べてきた「ドイチェ・ビュッヘライ」は東ドイツで最も重要な図書館で、1980年代末の蔵書数は約790万冊に達していた。これに次ぐのがベルリンの「ドイツ国立図書館」であるが、蔵書数は680万冊である。以下、ベルリン大学図書館(390万冊)、ハレ大学・州立図書館(360万冊)、ライプツィッヒ大学図書館(320万冊)、イエナ大学図書館(240万冊)ロストック大学図書館(170万冊)、ドレスデンの「ザクセン州立大学図書館」(110万冊)、ドレスデン工科大学図書館(110万冊)などが、東ドイツの主な学術図書館である。

このほか4500を超す特殊・専門図書館が存在したが、その中にはヴァイマルの「ドイツ古典図書中央図書館」(80万冊)のようなユニークなものも少なくない。さらに一般の公立図書館は全国で3500もあり、その蔵書数は合計4300万冊に達し、これらの利用者総数は年間390万人に上っていた。また労働組合図書館が4000あり、その蔵書数は970万冊に達していた。

以上見てきたように、人口わずか1700万人足らずの東ドイツにしては、図書館の数が極めて多いことが特徴的である。そして単に図書館とそこの蔵書の数が多いだけではなくて、実際の利用率も極めて高かった点が注目されるのだ。つまり東ドイツ国民の3人に1人が、常時図書館を利用していたという。とりわけ児童や青少年の利用率が高く、6~14歳の児童の70%、14~18歳の青少年の62%が、図書館を常時利用していたわけだ。公立図書館の場合1984年に、図書貸出し件数が8400万件という記録が残されている。

次いで社会主義的理念の実現に大きく寄与すべきものとされている出版人の養成機関に目を向けてみよう。こうした社会主義的出版活動の指導者になるべき幹部候補生を養成することをその任務とした「書籍出版販売研究所」が、1968年にライプツィッヒのカール・マルクス大学内に設立されたことが、まず注目される。この研究所は1960年に設立された「書籍出版販売アカデミー」とともに、重要な役割を果たした。ただ出版社や書店で働く一般の従業員の養成に関しては、すでに1949年に出された指令の中で一般的な精神や理念が説かれ、これに基づいて1957年に、「書籍販売専門学校」が設立されている。

いっぽう書籍見本市についてみると、ソ連占領地域での最初の見本市が、1946年5月に、伝統あるライプツィッヒで開かれている。その二年後の1948年春の書籍見本市には、170にのぼる出版社、取次店が参加した。そしてその年の秋の見本市には、外国からの最初の参加者として、オーストリアの出版社が出品した。ただこの「ライプツィヒ書籍見本市」は1973年以後は、年一回春にだけ開催されることになった。この1973年春の見本市には、21か国から800を超す出版社が参加した。

最後に書物の外的側面を代表する愛書趣味とブックデザインについて、簡単に触れておきたい。東ドイツにおいても、書物の蒐集、とりわけ古書、稀覯本(きこうぼん)、グラフィックなどの蒐集は盛んであった。そして愛書家協会として、1956年に東ドイツ文化同盟の内部に、「ピルクハイマー協会」が設立された。そして同協会では独自の機関誌『マルジナーリエン』を発行すると同時に、講演会、展示会その他を開催した。

またブックデザインの振興のために、「ドイツ書籍商取引所組合」(ライプツィヒ)及び文化省の共催で、1952年以後毎年、ブックデザインのコンクール「東ドイツの最も美しい書物」が開かれてきた。さらに1963年以後には、同じくライプツィッヒで、国際的なブックデザインのコンクール「全世界の最も美しい書物」が開催されてきた。東ドイツの最末期1986年についてみると、全世界から45か国が、これに参加した。いっぽう、外国における書籍見本市への参加状況について見ると、東ドイツの出版社は、周辺ヨーロッパの諸都市、つまりフランクフルト・アム・マイン、ワルシャワ、ベルグラード、ソフィア、ブリュッセルの書籍見本市に出品してきた。

ドイツ近代出版史(9)第二次世界大戦後 1945~(その2)

第三章 西ドイツにおける出版界の諸相(2)

(1)ポケット・ブックの隆盛

第二次世界大戦の直後にローヴォルト社が考え出した輪転機小説から、やがてポケット・ブック(日本の文庫本に相当)が生まれてきた。輪転機小説は形のうえではその名が示すように、新聞紙の半分の大きさであったが、新聞と同じように廉価で大量に販売された。ポケット・ブックは、その外形こそ普通の小型文庫版へと変わったが、廉価な大量生産商品という性格は、輪転機小説から受け継いでいる。高価なオリジナル版を合法的に復刻して廉価に大量販売する方法は、すでにレクラム百科文庫が19世紀の後半から連綿と続けてきたものである。この時書物の「非神格化」が起こり、従来の立派な装丁の、本棚に飾るのにふさわしい書物のほかに、こうした大量廉価本が一般に普及するようになったわけである。

ポケット・ブックは、いわばその延長線上にあるものと言えるが、その始まりはローヴォルト社が1950年から発行し始めた「ロ・ロ・ロ・ポケット・ブック」であった。このポケット・ブックの特徴としては、発行部数の多さ、均一判型、均一価格、各巻の番号付け、そして携帯に便利なことがあげられる。今日の日本人読者にとっては、巷に氾濫している文庫本のことを念頭に置いていただければ、第二次世界大戦後の西ドイツで隆盛を迎えるようになったポケット・ブックのことは、容易に想像できるはずである。

さて「ロ・ロ・ロ」を皮切りとしたポケット・ブックは、やがて他の出版社も競って発行するようになった。当初はこうした風潮に対して、「高度な精神財を俗化するもの」との非難の声が聞かれ、書店の側もこの風潮に批判的な態度を示していた。しかしやがて書籍販売者も、その文化的な意義や経済的効用を認めるようになった。こうしてポケット・ブックは、1960年には年間の発行部数が約1000点だったのが、1971年には3500点に増えた。また売り上げ部数は、1973年には5000万部と推定されている。

この時点で見ると、ポケット・ブックの創始者であるローヴォルト社の「ロ・ロ・ロ」ブックが売り上げ部数2000万部でトップに立っていた。これに続いて、「デーテーファオ」、「フィシャー」、「ゴルトマン」、「ヘルダー」、「ハイネ」、「クナウアー」、「マイアー」、「ズーアカンプ」、「ウルシュタイン」などの出版社のポケット・ブックがならんでいた。そして時代が下がって1987年になると、その年間の発行点数は1万1400点に増大しているが、これは書籍の総発行点数の17・4%を占める数字となっている。

(2)リプリント版の登場

第二次世界大戦の間、ドイツでは数百万冊にのぼる書物が消え失せたが、この大きな損失を取り戻す手段として、写真製版による本づくりが登場してきた。これは本の複製の一手段であるが、戦後アメリカ、イギリスなど英語圏との交流が深まった西ドイツでは、「リプリント版」と呼ばれるようになった。このリプリント版の市場は国際的な性格を持っていて、ドイツ系の会社としては、クラウス社(ニューヨーク/リヒテンシュタイン)とジョンソン社(本社ニューヨーク、支社ロンドン、ボンベイ、東京)が、有力な地位を占めていた。西ドイツ国内では、G・オルムス社が最大手で、1974年の時点で8000点を超すリプリント版を発行している。

リプリント版は、原本通りに複製するという意味ではかつての翻刻版と同じものであるが、著作権制度が確立した後のリプリント版とそれ以前の翻刻版では意味合いが異なる。リプリント版はむしろ我が国の復刻版に相当するものとみなすことができる。それはともかく19世紀の前半になってドイツでは、版権及び著作権の法的基盤が整ったわけである。当初著作権の保護期間が30年であったが、1934年には50年となり、戦後の1965年になって西ドイツでは70年に延ばされた。

しかしその一方で、リプリント版ないし海賊版と呼ばれているものを積極的に擁護する動きが、左翼の陣営から生まれてきた。「文学生産者」と称する左翼作家の組織が、1970年4月ミュンヘンで3回目の会合を開いたが、その時次のような決議が表明された。「文学生産者は、公有化された印刷物およびプロレタリア的なリプリントを、集団的所有物の資本主義的悪用ならびに独占化に対する抗議として、また社会主義的文化及びプロレタリア的階級意識形成への前提条件として、理解するものである」。そしてこの決議を実施に移すために「左翼書籍取引連合」が結成された。この決議は著作権制度そのものが資本主義的な悪であるとの考えを表明しているわけである。

(3)ブッククラブの発展

第一次大戦後のワイマール共和制時代に、ブッククラブは隆盛を見せ、末期の1933年には、その会員数は約80万人を数えていた。その後第三帝国の時代になってブッククラブは、特殊な同業者団体として国家から承認を受けた。そして1940年にはブッククラブの会員数は、170万人にも増加していた。またワイマール時代の代表的なブッククラブ「本のギルド・グーテンベルク」は、1933年にナチスの「ドイツ労働戦線」に組み込まれた。

第二次世界大戦後になると、ブッククラブは新たな発展を示すことになり、旧来のものに加えて新しい組織が次々と誕生した。なかでも「松明ブッククラブ」、「ヘルダー・ブッククラブ」、ブッククラブ「書物の中の世界」などが注目されたが、「セックス本配給ブッククラブ」といったものまで生まれた。その会員には年4回、その広告文によれば「きわめてエロティックな小説を詰め込んだ本の包み」が届けられることになっていた。

しかしなんといっても西ドイツのブッククラブ界を支配していた大きな存在は、二大出版コンツェルンであるベルテルスマン社とホルツブリンク社であった。1950年に設立された「ベルテルスマン・レーゼリング」は、瞬く間にその会員数が100万人を超え、1964年には250万人にも達している。いっぽうホルツブリンク・グループが経営する「ドイツ書籍連盟」と「福音派ブッククラブ」の二つを合わせると、その会員数は120万人に達した。ベルテルスマン社やホルツブリンク社などの巨大出版コンツェルンは、次々と中小の出版社やブッククラブなどを吸収合併して巨大になっていったのである。こうしたブッククラブ業界の集中化現象の進行の中で、なお健闘していたのは、ワイマール時代の「本のギルド・グーテンベルク」と戦後作られた「ヘルダー・ブッククラブ」ぐらいであった。

こうした流れとは別に、個々のブッククラブへの入会や退会は、全体としてみると、極めて目まぐるしいものがあった。退会するひとの数は年平均で20%近くにまで達したが、絶えず新会員を獲得していくことは容易ではなかったといわれる。ブッククラブは、1950年代に次々と新設され、会員数も増えていったが、60年代とりわけ70年代半ば以降になると、もはやそうした増加を望むことはできなくなった。その理由としてはテレビの普及がまず考えられるが、その他氾濫する雑誌類やデパート書籍売り場の廉価本もライバルとして挙げられている。

西ドイツにおけるブッククラブの総数が一体どれぐらいなのかという点については、研究者によって異なった数字があげられていて、定説はない。ただキルヒナー発行の『書籍百科事典』によると、1952年の時点で31となっている。またシュルツは1960年で40としているが、シュトラウスは1961年で31としている。

ところでブッククラブが一般の出版社と異なる点は、出版社の本質的な特徴ともいうべき版権をブッククラブは持っていないことにある。つまりブッククラブは、ほしいと思う本の出版権を、ライセンスを払って出版社から取得しているわけである。その際よく売れているオリジナル作品を選んでライセンスを支払っているので、売れない作品をつかまされるといった経営上の危機は、あらかじめ避けることができるのだ。このためブッククラブが発行する書物の点数は、年平均500~700点となっていて、中規模書店の年平均取扱量2万点にくらべて、はるかに少ない。その代わりあらかじめ確保した会員に対して、原則として発行した本はすべて配るわけであるから、多い発行部数が見込めるのだ。さらに著作権料や印税支払い分も、オリジナル出版社よりずっと安い計算になる。こうしたもろもろの事情が重なって、ブッククラブが発行する書物の価格は、オリジナル出版社の書物の30~40%になっている。

いっぽう巨大コンツェルンが経営しているブッククラブは、その後多角経営に乗り出し、やがて書物のほかに、グラフィックアート、レコード、音響機器、ホビー製品から一般のレジャー用品にまで手を広げている。ちなみに1980年代後半の西ドイツの出版市場においてブッククラブが占める年間売り上げ高の比率は、およそ12%になっている。

今まで述べてきた一般のブッククラブとは違った性格を持っているのが、1949年に設立された「学術ブッククラブ」である。これは企業採算性から言って一般の出版社から安くは発行できない専門性の高い学術書を、普通の定価の半分ぐらいの値段で出版することを目指して作られたものである。そのため出版社としての利益や流通利益が排除され、また予約購読制がとられた。いわばこれは学術書の出版を必要とした人々が作った、自助的な共同体というものであった。そして第二次世界大戦中の爆撃などによって各種図書館や書店から消失した、あらゆる分野の学術書をできる限り取り戻そうという意図のもとに行われた運動でもあったのだ。この「学術ブッククラブ」の幹部には、財界や学界の代表者たちがなったが、設立一年後の1950年には、その会員数は一万人を数えた。当初、出版社側からは、「学術ブッククラブ」としては既存の書物の復刻版制作にその仕事を限定し、初版の学術書の出版は一般の出版社に任せるよう、注文が付けられた。そのため初めのうちはこの注文に沿って、「学術ブッククラブ」は復刻版だけを出していた。そして友好的な関係にある出版社の協力のもとに、一般の書店を通じて会員以外にも販売するようになった。しかしやがて時のたつうちに事情も変わり、復刻版だけではなくて新刊書も出版するようになっていった。1973年の時点で見ると、年間の総発行点数447のうち新刊書は237点に達していた。それでは学術書といっても、どのような分野の書物が主として出版されてきたのであろうか? 次の表はその内訳を示したのものである。

出版された学術書の分野別比率(1974年)

ドイツ語・ドイツ文学      15%
社会科学            14%
歴史              12%
ギリシア・ローマ文献      12%
新文献学            10%
神学               8%
哲学               7%
自然科学             6%
芸術               5%
地理               3%
考古学              2.5%
インド・オリエント        2%
中世ラテン語           1%
極東               0.69%

(4)(中央図書館、書籍見本市、平和賞)

<ドイチェ・ビブリオテーク>

第二次世界大戦前、ライプツィヒにドイツの中央図書館として「ドイチェ・ビュッヘライ」が存在した。しかし大戦後、冷戦の進行に伴って、ソビエト占領地区にあったこの中央図書館が、西側占領地区から分離した存在となることが明らかになってきた。そのためアメリカ占領軍当局は、西側にも独自の中央図書館を設立する必要性を感じ、1946年、フランクフルト市立・大学図書館長を務めていたエッペルスハイマー博士に、その設立を委託した。そこで博士はフランクフルトに、中央文書館を兼ねた西ドイツ地域の中央図書館を建てる決意を固めた。そしてヘッセン州、フランクフルト市及び「取引所組合」の三者の協力によって、同じ年に中央図書館「ドイチェ・ビブリオテーク」が設立されたのである。同時に「ドイツ図書目録」の発行も行われるようになった。ただ当初は、この「ドイチェ・ビブリオテーク」への献本義務は、「取引上組合」の会員だけに課せられることになった。しかし「取引所組合」とはいっても、実際には西部ドイツ出版業の州組合が担い手となっていた。ところが1952年になって、これが公法上の組織「財団法人ドイチェ・ビブリオテーク」となり、「取引所組合」が正式の担い手として加わるようになったのである。さらに1969年には、連邦政府が直接管理するものへと改組された。これと同時に「ドイチェ・ビブリオテーク」への献本義務を定めた法律も制定された。

こうして制度面で次第に態勢を整えてきたわけだが、ここには第二次世界大戦後に発行された出版物が保管されているわけである。そしてこれらの出版物を系統的に分類掲載した『ドイツ図書目録』の発行も行っている。1966年、この種のものとしては世界で初めて電子式データ処理法が採用され、写真植字によって製作されることになった。この『ドイツ図書目録』は、西ドイツの全ての出版社からの献本義務と並んで、西ドイツおよび他のドイツ語圏諸国からの著者献本も掲載していたので、全ドイツ的な図書目録の性格も備えているわけである。またエッペルスハイマー博士のイニシアティブによって、ナチス時代のドイツ亡命文学作品の収集が行われ、これが「亡命文学Ⅰ933-1945特別展示として、一般に公開されたことも注目されよう。

さらに「ドイチェ・ビブリオテーク」は、「取引所組合」および「ドイツ・グラフィックデザイン協会」とともに、書物の造本・装丁に関する組織「財団法人ブックデザイン」を、1965年に設立している。そして「取引所組合」の主催で1951年以来行われてきた「最も美しい書物」と題するブックデザインのコンクールを、1965年からこの組織が引き継ぐことになった。第二次世界大戦前の1929年にも、この種のコンクールが行われたが、その後のドイツ社会の混乱と戦争のうちに、長らく中断されていたものである。なおこのコンクールのタイトルは1971年から、「五十冊の本」と変更された。

<フランクフルト書籍見本市>

フランクフルト書籍見本市(1991年)

フランクフルトの書籍見本市は15世紀末から16、17世紀にかけて、ヨーロッパの書籍取引の中心として栄光を担っていた。その後ライバルのライプツィヒ見本市との競争に敗れ、18世紀半ばに衰退した。しかし第二次世界大戦後のドイツの分断に伴って、再びフランクフルト書籍見本市は復活したのであった。

とはいえその再生は当初極めて小さな規模で行われた。その主催者は、フランクフルト市があるヘッセン地方の書籍出版販売組合であった。第1回の見本市は旧市内の歴史に名高いパウル教会に205のドイツの出版社が集まって、1949年に開かれた。これにはソビエト占領地区から6社が参加した。そしてその翌年の1950年には、もう外国の出版社100社が加わり、参加出版社は合計460社に増えた。またこの第2回から1964年まで、主催者は「取引所組合」の出版社委員会に変わった。さらにその会場も、参加出版社の増大に対応して1951年には、市内のやや外寄りの見本市常設会場へと移った。

この間参加出版社の数は、年を追うごとに増大し、1959年には1837社になっていたが、この時すでに外国からは35か国1100社が出品していた。この数字を見ても、第二次世界大戦後に再開したフランクフルト書籍見本市が、いかに国際的な性格を帯びるようになっていたかが、分かるというものである。こうした書籍見本市の国際化に対応するようにして、見本市開催業務には、「取引所組合」のほかに、連邦外務省も部分的に参画するようになった。ここにこの見本市は、「フランクフルト国際書籍見本市」になったのである。そして1964年には「取引所組合」の専属団体として、見本市有限会社が設立されて、書籍見本市業務を専門に取り仕切るようになった。

いっぽう参加出版社の数に目を向けると、1968年には合計3048社となったが、そのうち外国の出版社は49か国2158社であった。さらに1973年には、59か国からの外国出版社を含めて合計3817社になった。また1972年に「取引所組合」の会長が言ったように、見本市の性格が従来の書物を売る市(いち)から、このころには「関係者の出会いの場、交際の場所」へと変貌を遂げていたのである。

また1976年から「フランクフルト国際書籍見本市」は、一年おきに重点テーマを掲げるようになった。例えばブラックアフリカ、インド、オーウェル2000といった風に。さらに1988年からは、毎回重点的に扱われる国が指定されるようになった。1988年はイタリア、1989年がフランス、1990年は日本であった。そして見本市への参加出版社の数はその後も着実に増え続け、1988年の第40回見本市には、95か国から合計7965社が参加した。そしてこの時見本市を訪れた人の数は、取引に直接関係のない一般客を含めて22万人に達した。さらに1991年の第43回見本市には、91か国から参加があった。この年の重点テーマ国はスペインであった。

ここで国際的な「フランクフルト書籍見本市」を補完するものとして、マインツの「ミニ・プレス見本市」に一言触れておこう。これはN・クバツキーのイニシアティブで、マインツ市の後援を受けて開かれているものである。これに参加しているのは、グラフィック・デザイン、愛書家向け書籍、抒情詩、時代批評、政治図書などを出版している小出版社である。さらに古本の部門では、1962年から毎年シュトゥットガルトで「古書籍見本市」が「ドイツ古書籍商組合」の主催で開かれている。また1968年からは、「ケルン古書籍市」も、毎年9月に開催されていることを付け加えておこう。

<ドイツ出版平和賞>

1950年、西ドイツの15の出版社の共同で、平和賞というものが設けられた。この時の受賞者は、ベルリンのカッシーラー出版社の元編集長マックス・タウという人物であった。その受賞理由としては、賞状に「第二次世界大戦後、ドイツ人作家及びドイツの書物の普及への貢献を通じて、かれが将来への国際理解への架け橋となった」ことが記されている。平和賞を設けた理由も、まさにこの点にあったわけである。

翌1951年にはこの平和賞を「ドイツ出版販売取引所組合」が引き継いだ。そして以後毎年授与されることになったため、これは「ドイツ出版平和賞」と呼ばれるようになった。そして「平和と人類と国際理解に貢献した人」に、この平和賞が授与されるべきことが、改めて謳われた。具体的には、とりわけ文学、科学、芸術の分野で、平和思想の実現に貢献した人物に、授与されることになったのである、こうして1951年にはその第一回受賞者として哲学者のアルベルト・シュヴァイツァーが選ばれ、フランクフルトのパウル教会で授賞式が行われた。

以後この平和賞の授与は、毎年秋に開かれる書籍見本市の期間中に行われることになった。そしてその選考に当たっては、「国籍、民族、宗教」の別なく、11人の委員からなる選考委員会によって受賞者が選出されることになった。事務局及び関係文書の保管所は「取引所組合」の内部に置かれている。この「ドイツ出版平和賞」は,回を重ねるごとに国際的にその重みを増しており、受賞者もノーベル平和賞に匹敵するような世界的に著名な人物が選ばれている。そしてこの平和賞は「フランクフルト国際書籍見本市」には欠かすことのできない行事として、知られるようになってきている。

(5)著作者の組織化

<ドイツ作家連盟>

著作者は通常ものを書き、それを発表すること、つまり著作活動によってもたらされる収益で生活していかなければならない。著作者と言えども他の人と同様に、物質的関心を有している。しかし著作者の仕事は個人的な性格のものであり、その点その利益を代表することに関しては、他の職業やグループよりも劣っている。確かに西ドイツにはいろいろな地方作家連盟というものがあって、会員の社会的利益を考えてきたが、あまり効果的とはいえなかった。

ところが1969年になって、指導的な作家も加わって、「ドイツ作家連盟」が設立された。その設立に当たって、西ドイツの代表的な作家でのちにノーベル文学賞を受賞したハインリッヒ・ベルは、「慎ましさの終わり」を高らかに宣言した。それまで文学や思想や社会のことについては大々的に発言してきたが、こと自分の経済生活のことになると他人に言うのを恥じて、ひたすら慎ましさの中に引きさがっていた作家が、この時堂々と闘いの宣言をしたのであった。「ドイツ作家連盟」は当初から労働組合に類似した組織であった。翌1970年にシュトゥットガルトで開かれた第一回総会で、作家マルティン・ヴァルザーは、「なにがしかの自明の理をもって、自らの生産手段を創り出すことができるために、<文化労働組合>なるものを将来作る考え」を明らかにした。しかし実際には1974年に「ドイツ作家連盟」は、「印刷・製紙産業労働組合」に、専門グループとして加入したのであった。

こうしてドイツ作家連盟は、作家の経済生活の改善をその主要関心事として取り組むようになった。1972年報道週刊誌『デア・シュピーゲル』が作家の経済状態についてアンケート調査を行ったが、その際とりわけ中・高齢著作者のおかれた苦しい生活ぶりが明らかとなった。また第一回総会で作家のロルフ・ホーホフートは、老齢の著作者のおかれたみじめな経済状態について、世の人々の注意を喚起している。その報告の中で、自分の読者を失い、出版社や放送局から名前を忘れられた19人の高齢の作家のことが伝えられた。また文学賞を受賞したような高名な作家の生活も、そう楽ではなかった。ゲオルク・ビュヒナー賞の受賞者エルンスト・クロイダーは、「墓場に行くまで書き続けなければならない」と嘆いている。また同じ賞の受賞者ヴォルフガング・ケッペンは、「作家とは終生、借金地獄にいるようなものだ」と語っている。

このような著作者のみじめな状態を改善するために、「ドイツ作家連盟」は、各方面への働きかけを始めたのだが、まもなく若干の成果を上げることができた。主として連盟の要請によって1972年、図書館納付金という制度が導入されたのである。これは公立の図書館で本を貸し出すごと一回につき、図書館所有者は基金に10ペニヒ納入するというものである。これを作家の養老年金資金にしようとしたわけである。また大出版コンツェルンのベルテルスマン社は、同社から3冊以上本を出している作家に対して、老齢年金制度を設けたが、こうしたことは豊富な財政基盤があって初めてできることである。

<自由ドイツ作家連盟>

その一方、「ドイツ作家連盟」に背を向ける作家もいた。今日なおたくさんの読者を抱えている有名な作家オイゲン・ロート(1895年生まれ)は、「作家連盟が労働組合に加盟することは、無意味なことだ・・・作家とはサーカスの綱渡りのように危うい職業なのだ」と、自分の見解を明らかにしている。こうした考えに同調する作家も少なくなく、その立場から「自由ドイツ作家連盟」が設立された。これは当初南ドイツのバイエルン州から出発したが、やがて西ドイツ全域へと広がり、さらにその枠を乗り越えていった。そして所属する政党、団体に関係なく、自由な民主主義原理に基づく全ドイツ語圏の作家のための職業団体である、と同連盟は自己の役割を規定している。

<作家の自主出版社>

18世紀初めの哲学者ライプニッツの試み以来、作家が自ら出版社を経営する考えは連綿と続いてきた。第二次世界大戦後、大出版コンツェルンのベルテルスマン社では、こうした著作者の要望を取り入れて、著作者による一種の共同編集モデルをつくりだしている。ここでは4人の作家と出版社代表1人から構成される編集委員会によって、どんな小説・物語を出版していったらよいか、決定されるのである。その意味ではこれは作家の純粋な自主出版社ではなく、作家グループを交えた編集の共同決定システムだといえよう。

これとは全く別に、第二次世界大戦中メキシコに亡命したドイツ人作家が、1942年に作った自主出版社「エル・リブロ・リブレ」というものがあった。これはA・アブッシュ、L・レン、A・ゼーガースなどが資金を出して設立したものである。またH・ケステンが提唱して作られたドイツ人亡命作家の自主出版社に「アウローラ出版社」があった。その規約によれば、同社は設立発起人の共有財産とすることが記されていた。ちなみにこの発起人には、E・ブロッホ、B・ブレヒト、A・デーブリン、H・マンといったそうそうたる名前が連なっていた。また規約の中の重要項目として、出版物の発行は委員会の多数決によって決定されるべきことや、出版物の最初の1000部に対しては印税は支払われないことが記されていた。

時代が下って1960年代になると、新左翼運動との関連の中から、作家の自主出版社設立の動きが起きてきた。この運動に伴って実に様々な宣言が出され、実験が行われたが、それらに共通していたのは、私的経済の基盤の上に立ってきた従来の出版社経営から決別するということであった。そしていかなる種類のものであれ、私的な利益追求は行わないことが明らかにされた。さらに出版経営によってあがった利益は、次の政治的な出版活動の資金に回されることも、しばしば宣言の中に謳われていた。こうした運動の先頭に立った人物に、老舗のS・フィシャー出版社を政治的見解の相違から1964年に解雇された同社の文学担当編集員K・ヴァーゲンバッハがいた。彼とは作家のJ・ボブロフスキーとC・メッケルが行動を共にした。彼らは手を携えて私的利益の追求を目的としない出版社の設立を考え、同年のうちにK・ヴァーゲンバッハ出版社が開業した。そこでは作家たちが編集と経営に共同決定の権利を有していた。そして1971年には同社で働く人全員の賛成を得て決定された定款の中に、年一回の作家総会が経営監査の権利をもつことが盛り込まれた。実際ヴァーゲンバッハはその総会で、出版社の一年間の経営状態を公開したのである。

これとは別に作家たちが集まって1969年に、演劇関係の出版社として「作家の出版社」が設立された。その設立趣意書には、出版社の性格が記されているので、少々長いが引用することにする。
「当出版社は社員の所有物である。社員は作家及び出版社の事務員から構成される。この社員が出版社の意志決定をする。生産者は自らの関心事を、自らの責任において、自らの財布をもって達成すべく仕事をする。作家の出版社には、<出版主>は存在しない。出版社の業務は、三年の期限をつけて社員から選ばれる代表によって執り行われる。出版社の任務、目的、方針は、年次総会において社員が決定するが、新しい作品を受け入れるか否かの決定は代表が行う。作家は他の出版社と同様に印税を受け取り、代表及び事務員には給料が支払われる。それ以外の出版社の収益は、社員に分配される」

もう一つ別の動きとして、「文学生産者」の運動を挙げることができる。これは1970年4月にミュンヘンで開かれた会議でその方針が定められた作家の出版社であった。この大会で、学術書の著作家が著書出版社に集結すると同時に、資本主義的労働分配がもたらす社会的損害を軽減するために、既存の出版社における利用の権利を自ら行使することが呼びかけられた。さらに大会では、「生産手段の資本主義的処分権の廃止と生産者の自由な連合」が宣言された。